本スレ投稿より抜粋転載。
2024-12-20 11:17:13 名前無し
■虐げられ我慢してきた聖人
「つけあがる」とは…相手の寛大さにつけこんで、やりたい放題すること。寛大さを、弱さや優しさや立場の違いと置き換え、使われることもある。ドラマに、つけあがる人物を描くのはアリ。例えば…
・客と店員という立場につけこんで、横柄な態度を取る客
・他の友達にはそんな態度を取らないのに、大人しい友達には上から目線の人間
・黙って従っているのをいいことに、部下を「シモベ」(←あえての表現)のように扱う上司
…等々。
どれもドラマでよく見るパターンだ。決して気分のいいシーンではないが…それがドラマにとって必然性のあるシーンなら描くのはアリ。つけあがっている人物に対して、ガツンと言ってくれる人物を登場させるとか…つけあがる人物を反面教師として、主人公の成長を描くとか…。描き方次第で、視聴者の多くは好意的に見るだろう。それこそ、結がガツンと言えば、困っている人を放っておけない「米田家の呪い」にもピッタリだ。
描くのもアリだが、「つけあがる人間は嫌いだ」とか「これ以上つけあがらせなくてよかった」等の感想も当然アリ。「つけあがる」という行為自体が、相手を見下したりナメたりしているわけで…。だから、つけあがっている人物やその行為を批判する感想は、見下すことを批判しているに過ぎない。逆の意味に捉えているのか、言葉狩りなのか不明だが…「つけあがる」を違反ワードと言うのは間違い。つけあがる人物に性別は関係ないので、女性蔑視にも当たらない。
話を戻そう。上記3例の場合、「つけあがっている・見下している」人物=強者に対して反感を抱き、「我慢している・虐げられている」人物=弱者に対して共感なり同情なり応援なりをする視聴者が多数だろう。これが理解できなければ、脚本家の資質ナシ。
ここからが本題。では、おむすびにおいて脚本家は、聖人と愛子をどう描いてきたかというと…
・「あなたは何もわかってない」「余計なことを言うな」「愛子さんに任せておけばよか」等、愛子や祖父母からの【お前は黙っとけ圧】を受けていた聖人
・娘の前で、妻からプロポーズを暴露され、笑われ、居たたまれなくなった聖人
・翔也への助言で「(夫婦円満のコツは)我慢と謝罪」だと言った聖人
…等々。
対等な関係ではなく、聖人を弱者、愛子を強者として、【虐げられ我慢する聖人】を描き続けてきたのは他ならぬ脚本家自身なのだ。
△△△
私は、愛子が付け上がっているとは思いませんし、そういう描写があると感じたこともありません。
聖人は弱者でもなく、虐げられてもいません。
年頃の娘の気持ちに対する理解や配慮が充分とは言えなかった父親です。
その父親に対して、理解や配慮が足りない部分に意見したり諌めたりしていたのが、愛子であり永吉であり佳代です。
愛子と聖人は対等な関係の夫婦にしか見えません。
お互いに、言いたいことを言い合っているように見えます。
愛子に対して「我慢や」と言ってる聖人の台詞がありましたが、愛子に聞こえるように言っており、あれは軽い嫌味のような台詞です。
また、パートナーとの人間関係に於て、互いに口が過ぎることはよくあることであり、互いに口が過ぎる、という日常的な状況は、夫婦が対等な関係であることを示しています。
更に加えると、愛子は嫁であり、永吉と佳代にとっては血が繋がらない他人。聖人は、永吉と佳代の息子です。
一般的に、息子より嫁の肩を持つのは、嫁が疎外感を感じないようにする為の家庭円満の秘訣でもあります。
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