14の続き
↓
https://www.ch-review.net/ochanoma/1597/203
この投稿は↑の続き。これで最後です。
『結だけでなく、他の登場人物も。何かがあったり年齢を重ねたりして起こる変化ではなく、脚本都合や脚本破綻によるキャラ変及び不自然な言動がずっと続いているのだ。』
ここまでの反論で示したように、それは “このレビューを書いた人がそう思っている“という話。
脚本都合は物語の構成上必要なことで、どんな脚本にもある。
ましてや、脚本破綻などはしていない。
キャラ変も納得のいく変化であり、不自然な行動もない。
『また、今まで表に出さなかった言葉や感情が何かのきっかけで出てくるならわかるが、このドラマの場合はそのきっかけが【脚本都合】になってしまっている。脚本家が「謎」のまま引っ張りたい時は出さずに、ネタとして描きたい時に投入しているだけ呆。だから不自然だし、ぶつ切りで繋がらない。』
どんな脚本でもきっかけは脚本都合であり例外はない。
ノンフィクションならともかく、フィクションの世界で人為的以外のきっかけが起こることは有り得ない。
不自然なこともないし、私がぶつ切りと感じた部分は糸島編で2年すっ飛ばしたこと位。
あの2年すっ飛ばしは、登場人物に、すっ飛ばしを自虐させる台詞を入れているくらいだから、脚本家自身、ぶつ切りだと自覚しているのだろう。
あのぶつ切りが、今後のエピで出てくるのかスルーするかで、ぶつ切りの評価は変わってくる。
今はまだ、判断するのは時期尚早。
私が気になっているのは、恵美の存在。
結から恋の対象として見られていなかった陽太に、恵美が近付く場面(帰るので“送って“とやや強引口調)や寄り添う場面(海辺で缶コーヒーを差し出す場面)があった。
2年経っても、陽太が結を忘れられなかったことは分かったけど、恵美はその間どうしていたのか。
今後、恵美が再登場して陽太のことを話す場面があるのかどうか。
(2人が付き合うことにしたとか結婚のエピでもいいんだけど)
結は、永吉との約束もあるから、今後糸島に帰省する可能性もあり、その時に旧友として登場し、高校時代を振り返るようなエピがあると良いのだけど。
『要するに、「回想」の使い方が下手なのだ。上手い脚本家なら、まず本筋で惹き付けることができるし、そこに絡めて自然な形で「回想」を入れることができる。』
私は回想の使い方が、逆に上手いと思っている。
https://www.ch-review.net/ochanoma/1614/42
に書いた感想参照。
『で、「前にこんなことがあった」からこうなっていたのだという、点と点が繋がる形になる。整合性が取れているのは当然として、深みのある人物造形とストーリー展開(+各演者の演技力)で視聴者を魅了することができただろう。』
私はおむすびの人物造形に不満はない。
神戸編になってからのナベさんの描写には、緒方直人さんの卓越した演技もあり、ナベさんが出てくる度に心に刺さるものもある。
他の登場人物についても同じで、聖人、結や歩等は、現在の状況に至った背景がよく分かる。(愛子スケバン時代&聖人との馴れ初めはある?)
永吉も、結や聖人らに対する思いが、糸島を離れる前の畑のシーンで描かれたことで深みが増した。
それと、神戸編で結にカラオケボックスから電話をかけてきたルーリー達ハギャレンの、あの適当な様子。
私的には、結構あのシーンがツボで、自分自身のあの年頃のことを思い出した。
久しぶりに友人同士で集まると、其々が色々なことを喋るんだけど、皆、人の話なんかろくに聞いてなくて、楽しく騒いで時が過ぎて、でもそれで良かった。それが楽しかったと後になって笑いながら振り返れるような時間。
真剣な話は別の機会にゆっくり話せば良いし、其々が勝手に話したいことが話せるような、ホッとするような気のおけない友達との時間。
人との付き合いでは割と距離を持って接することも多かった結も、そういう気のおけない友達を高校時代に得ることが出来たんだなぁと思って、私は嬉しかった。
結やハギャレンの人物造形としても成立していた。
『残念ながら、おむすび脚本(+橋本環奈)には無理だったようだ。「チンして」失言の後悔の描き方…重要ポイントだったはずなのに…今更どうしようもないが。』
おむすびという作品を好まないのは、人の好みなので端がどうこう言うことではないが、この作品の脚本は別に破綻してはいない。
私はそう思って見ている。
△△△
まだ字数が書けるので、>>13に書かれた内容について。
『例えば、ギャルを嫌っていた結が突然「ギャルやりたい」と言って、バリバリのギャルになる。パラパラが楽しかっただけで?』
違う。
震災前の結は、お洒落して着飾ることが好きだった。
その頃の気持ちが蘇った描写がある。
一度、歩の部屋にあるひまわりの髪飾りを自分で付けてみたのが伏線。
その後、歩と和解して髪を結ってもらい、ギャルの服装に身を包んで父に「ギャルやりたい」と話し、今に至る。
『日常的に料理を作っている様子もないのに、いきなり彼氏でもない翔也の弁当を毎日作る。結局、高校時代に自分の弁当くらい作ったのか?』
自分の弁当は知らないが、翔也の弁当は、佳代に教えてもらって作り始めた。
自分のご飯より彼氏のご飯。
人に食べてもらう喜びが結に弁当を作らせた。(台詞がある)
『弁当差し入れをコーチに否定されてから、2年間すっ飛ばして、いきなり栄養士を目指す。理由は彼氏を支えるために?』
それしかない。
何かを目指す動機として、あの年頃の女の子では彼氏は一番の動機。
『なのに栄養士学校のことは何も知らずに(調べずに?)、調理実習のある日にバリバリギャルメイクと付け爪で登校する?(親も黙認?)』
そこが結の結たる所以。
結は、基本的に深く物事を考えない。
愛子の黙認は、学校でどうせ言われるだろうから自分で気付け!だったかも。
聖人は注意していて、でも結は反論してるので、どうせ言ってもきかないと思っていたんだろうと。
『先生に指摘されるまで非常識さに気づかない? 何歳?』
結の浅さ、考えの甘さを現している人物描写。
18歳ぐらいだと、実際にも時々そういう子はいる。
脚本家のギャルに対する認識がそうなのかもしれない。
物事あまり深く考えてないよな~みたいな。
『それほど畑を手伝った様子もないのに珍しい野菜は知っている?(都合良く売り場にある?)』
都合よく売り場にあったのは脚本都合だろうけど、畑は小学?~中学時代にはよく手伝っていたと何度か台詞に出てくる。
選別作業はハギャレンと付き合い始めた頃も行ってる描写が何度も。
ハギャレンと距離をおいた時、土日に畑仕事をしている描写もある。
「農業を継ぐ」と言った一時期は登校前に農作業。出荷の手伝いもしていて、将来が楽しみと近隣の農家の人が結のことを聖人に話す描写がある。
ものすごくムキになって反論してるけど、他人の感想は変えられませんよ。
あの長文を読んで思ったのは「めんどくさっ」だけ。
あのドラマをつまらないと感じている者にとっては、あの長文もつまらない。
私は自分の感想を書きたかっただけで、論争するほど「おむすび」に執着してないので、二度とこのスレには投稿しません。
本スレもお茶の間も長文過ぎるのは読んでいて疲れます。というか途中までしか読まなくなりました。もう少し簡潔にまとめてもらえたらと思います。
なんか…すごい勢いで一生懸命書いてくれたみたいなので対応しますが…。
>不自然でもなく、ぶつ切りでもなく、繋がっている。キャラも言動も破綻していない。
→そう感じるか否かは人それぞれなので、どーぞそう思っていればいいですよ(*^-^)
ただ、わざと歪曲しているのか、読解力理解力の問題なのかわかりませんが…感想の【読み違い】がありますね。あと、放送内容の【誤認】も。それらだけは指摘しておきますので、よく確認してくださいね。間違った認識のままでは反論にもなっていませんし、議論もできませんので。
>気を遣った相手は結達ではなくて、美佐江。
→??美佐江が皆に気を遣って、しばらく黙っていた…と描かれたという話。母が結達ではなく美佐江に気を遣った??話などしていない。
>寄り添う必要があるのはナベさんに対してだけ?美佐江も被災者。
→??…だから、その被災者である美佐江に対して書いたのだが…よく読んでくださいね。
>糸島という安全な場所に逃げて、ずっと暮らしてきた聖人が自分から被災者達に「どうしてる?」なんて電話連絡をすることなんかできるだろうか。
それこそ無神経。
→誰がそんなことをしろと??…よく読んでくださいね。
>ましてやナベさんとはあんな状況で別れ、ナベさんの傷が深いこともわかっている。
→あんな状況で別れ??ではない。「過去を小出し?にする手法」なので、結父の糸島移住前については何も描かれていない。時系列通りに描かないと、こういう誤解をする視聴者が出てしまうという適例。
>すっ飛ばしてはいない。糸島フェス打ち上げの時の大演説でどれだけ聖人が後悔、真摯に思っているかを描いている。
→誤認。自分が神戸のために動いたことで、家族を放ったらかしにしてしまい、そのせいで歩が不良になってしまった(←聖人はそう思っている)という後悔と苦悩を吐露した。移住してからの真紀父への思いを描いたシーンではない。
>その前、神戸市の広報を見て思いを馳せているシーンもあった。
→これは以前にも書いたが、震災1年後のシーンで、1回きり。
>はっきり記憶にあるとは一度も描いてない。
→誤認。河童に語るシーンで、家の倒壊と「チンして」のやり取りは、結の記憶として描かれている。
>どうしてやる意味がないのか。
「大量調理は今後あちこちの職場に行った時にやるので、本当は2年になってからだけど、少し早いけれどもやってみましょう」と先生が言っていた。
→ドラマとして描く意味がなかったということ。全てドラマにおける描写についての話をしているのに…根本からズレているので話にならない。
>後悔したら同じことは繰り返さないというのは単なる理想。
結が理想通りではないからと言って 整合性がないということにはならない。
→??そんな話はしていない。
>過去エピを回想で出したからと言って、そのことで整合性を語るのはおかしい。
→意味不明。そのことで整合性を語るのはおかしい??どのことでも整合性がなければ破綻脚本である。
>ここまでの反論で示したように、それは “このレビューを書いた人がそう思っている“という話。
→読み違いと誤認と、超好意的解釈による脳内補完であることは充分示していたが…全く反論にはなっていない。
>どんな脚本でもきっかけは脚本都合であり例外はない。
→脚本都合の意味を誤認している。
>不自然でもなく、ぶつ切りでもなく、繋がっている。キャラも言動も破綻していない。
→まさに「それは “このレビューを書いた人がそう思っている“という話。」であるが、その判断材料として書いた内容は“妄想と誤認によるものだった”という話。
>本スレでおむすびを批判している人は、ドラマを見ずに批判している
→そう思いたい気持ちはお察しします。皆さん脚本の破綻ぶりに対して的確な批判を書かれていますから。それより、まずは自分がしっかりドラマを観ることから始めましょう。復興担当職員が誰かもわからないようでは話になりませんよ。あと、別のところに書かれた内容は規約違反なので、以後やめるように。
18へ
脚本破綻を理由にしてるようですが、前作では大絶賛して、今作では毎日煽るような長文批判も、また違反に近いと思って読んでいます。
19へ
そのような事、朝ドラでは昔から普通にありますが。反対も然り。
違反投稿でない限り、他人の投稿に対してああだこうだと言うのはいかがなものかと思っております。
私などはそちらの方がよほど違反じゃないかなと思いますね。
違反だとは書いていません。
※ファン同士の対立を煽るような書き込みは行わないでください。
これに近い状況が昔から蔓延しています。
前作ではくそみそに叩いていた人が今作では大絶賛しています。
お互い様だと思います。人の振り見て我が振り直せ。
19の投稿内容について
ドラマを見て、良い部分は称賛し、悪い部分は批判する。それのどこが「違反に近い」のか説明できますか?
「大絶賛」というのは19の主観です。が、大絶賛は違反ではありません。
「煽るような長文批判」も19の主観です。が、長文批判は違反ではありませんし、煽りでもありません。
※ファン同士の対立を煽るような書き込みは行わないでください。
→コレに触れているものは最近もありましたね。「おむすびを批判する人たちはドラマを見ていない」というのが。
私は前作も今作もしっかり見て、自分の感想を書いているだけです。
★ガイドラインに沿った感想に対して「違反に近い」と書く行為こそ煽りに感じますし、19の投稿内容はこのスレの禁止事項に当てはまります。
今後はこのような投稿は控えてください。
先に対応していただいた方に、お礼申し上げます。
19~23
ローカルルール違反です。
このスレは、作品の内容について議論するスレです。
利用者投稿者について議論することは禁止です。
感情的な書き込みも禁止です。
続きは他スレで行って下さい。
19~23の内容は、「朝ドラレビューはなぜ荒れるのか?」スレが適当だと思います。
本スレ投稿より抜粋転載。
2024-12-20 11:17:13 名前無し
■虐げられ我慢してきた聖人
「つけあがる」とは…相手の寛大さにつけこんで、やりたい放題すること。寛大さを、弱さや優しさや立場の違いと置き換え、使われることもある。ドラマに、つけあがる人物を描くのはアリ。例えば…
・客と店員という立場につけこんで、横柄な態度を取る客
・他の友達にはそんな態度を取らないのに、大人しい友達には上から目線の人間
・黙って従っているのをいいことに、部下を「シモベ」(←あえての表現)のように扱う上司
…等々。
どれもドラマでよく見るパターンだ。決して気分のいいシーンではないが…それがドラマにとって必然性のあるシーンなら描くのはアリ。つけあがっている人物に対して、ガツンと言ってくれる人物を登場させるとか…つけあがる人物を反面教師として、主人公の成長を描くとか…。描き方次第で、視聴者の多くは好意的に見るだろう。それこそ、結がガツンと言えば、困っている人を放っておけない「米田家の呪い」にもピッタリだ。
描くのもアリだが、「つけあがる人間は嫌いだ」とか「これ以上つけあがらせなくてよかった」等の感想も当然アリ。「つけあがる」という行為自体が、相手を見下したりナメたりしているわけで…。だから、つけあがっている人物やその行為を批判する感想は、見下すことを批判しているに過ぎない。逆の意味に捉えているのか、言葉狩りなのか不明だが…「つけあがる」を違反ワードと言うのは間違い。つけあがる人物に性別は関係ないので、女性蔑視にも当たらない。
話を戻そう。上記3例の場合、「つけあがっている・見下している」人物=強者に対して反感を抱き、「我慢している・虐げられている」人物=弱者に対して共感なり同情なり応援なりをする視聴者が多数だろう。これが理解できなければ、脚本家の資質ナシ。
ここからが本題。では、おむすびにおいて脚本家は、聖人と愛子をどう描いてきたかというと…
・「あなたは何もわかってない」「余計なことを言うな」「愛子さんに任せておけばよか」等、愛子や祖父母からの【お前は黙っとけ圧】を受けていた聖人
・娘の前で、妻からプロポーズを暴露され、笑われ、居たたまれなくなった聖人
・翔也への助言で「(夫婦円満のコツは)我慢と謝罪」だと言った聖人
…等々。
対等な関係ではなく、聖人を弱者、愛子を強者として、【虐げられ我慢する聖人】を描き続けてきたのは他ならぬ脚本家自身なのだ。
△△△
私は、愛子が付け上がっているとは思いませんし、そういう描写があると感じたこともありません。
聖人は弱者でもなく、虐げられてもいません。
年頃の娘の気持ちに対する理解や配慮が充分とは言えなかった父親です。
その父親に対して、理解や配慮が足りない部分に意見したり諌めたりしていたのが、愛子であり永吉であり佳代です。
愛子と聖人は対等な関係の夫婦にしか見えません。
お互いに、言いたいことを言い合っているように見えます。
愛子に対して「我慢や」と言ってる聖人の台詞がありましたが、愛子に聞こえるように言っており、あれは軽い嫌味のような台詞です。
また、パートナーとの人間関係に於て、互いに口が過ぎることはよくあることであり、互いに口が過ぎる、という日常的な状況は、夫婦が対等な関係であることを示しています。
更に加えると、愛子は嫁であり、永吉と佳代にとっては血が繋がらない他人。聖人は、永吉と佳代の息子です。
一般的に、息子より嫁の肩を持つのは、嫁が疎外感を感じないようにする為の家庭円満の秘訣でもあります。
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