5 | 254件 | ||
4 | 105件 | ||
3 | 62件 | ||
2 | 51件 | ||
1 | 217件 | ||
合計 | 689件 |
「ヒトが臓器提供のための家畜になる」というドラマは、失敗作だと思いました。
あと、貧相な 綾瀬はるか よりも、 水川 あさみ の方がずっと魅力的でした。
綾瀬はるか と 魅力的な 水川 あさみ の配役が逆だった方が良かったです。
私は楽しみに見ていました。
ただ1つのテーマとしては散漫になったような…
見る人に任せたのかもしれませんが。
最後の入水自殺しようとするシーン。
普通なら嫌悪感を感じますが、外から遮断されて夢も希望も持てないクローン。
みんな居なくなってひとりぼっち。
この環境なら…仕方ないよなと思った所へ、とものサッカーボール。
どんな状況でも生きていく事が大事、大切なのかもしれない…そんなメッセージを貰った感じがしました。
色々な意見があるけど、私は命あるかぎり精一杯生きようと思いました。
見応えのある面白い(いろんな意味で)ドラマは1時間があっと言う間。
このドラマは長かったぁ~
つまらないドラマにお決まりの回想シーンも多かったしね~
せっかく綾瀬はるか主演だったのに。もったいなかった。
暗くてやりきれないドラマで、綾瀬はるかさんが主役である良さがないなぁと思ってなせだか毎回、そして最後まで見ました。
だけど最終回で分かりました。疲れて帰ってきて、見ても心が晴れないのに毎回見ていたのは、綾瀬はるかの魅力だったと。一緒に泣いてしまいました。
ただ最後は「やっぱり人間は間違ってたよ。クローンを遣って臓器移植するのをやめました!」って終わってほしかったです。
苦しい思いをしながら何とか最後まで観ました。
苦しみ悲しみに立ち向かう恭子を演じた綾瀬はるかさんの演技本当に良かったと思います。三浦春馬さんと水川あさみさんももちろんですが。
クローンの臓器提供の世界なんて有り得ないと思いつつ、もしそんな世の中になったら本当に怖いですよね。どんな人も生まれて良かったと思える世界がいいに決まってます。
私は宝箱いっぱいにする人生を歩んでいるかしらと思った最終回でした。
このドラマに出会えて良かったです。
なんとも言えぬ気持悪さというか不愉快さを感じます。恭子とともがたつ子先生とサッカー見物していたときの話って一体なんなんでしょう。臓器提供を受けた息子に提供者と同じ名前をつけた父親の話って。ここまで無理やりに美談に仕立てたいんですか?これに感動せよというんですか?
この脚本家が中途半端にクローン問題を扱うやり方に、心から腹が立ちます。そんな程度の問題ですか?そもそも臓器提供の手術の前にともが激しい心の葛藤を繰り返す場面をみて、他の提供者たちも同じだとは思わないのでしょうか。
他人に臓器を提供する役目を生まれながらに背負って、そのために若い命を散らしていく。そのことに疑問を感じないクローンなんているだろうか。そんなクローンたちを、彼らを統制する当局(?)は一体どのように管理しているのでしょうか。
自殺志願者が出たり、反抗者が出たり、それこそ提供手術前は大騒ぎになるだろうに。そういう騒ぎを管理側は一体どのようにして収めていたんですか?
ともかく余りにも重い問題を、ただ感動的な(?)恋バナを描くための味付けになど使って欲しくない。もともと森下さんの作品は好きなのですが、今回だけはこのテーマを安易にドラマ化しようとした人たちへの怒りしか感じませんでした。
これまで、原作よりクローンの話を膨らませて悲惨さや残酷さを強調したよりドラマチックに大仰に語るやり方には疑問でした。社会の視点を入れたり、疑問に立ち向かうマミのようなキャラクターを作り、校長先生もクローンという設定にしたりと。
常に残酷さという面において強調しなんやかんやと刺激しておきながら、
肝心の最後のところで、恭子がトモの分身として送り出したサッカーボール、同一のものかは定かではありませんが、が流れ着いたことでまた現実の世界へたち戻るという表現にとどめていました。
どうせ自分にももうすぐ提供がやってくるだろうと恭子が自分で言うだけ。
いつかはわたしにもその時が来る。
いや確実に来るという事なんですが、
いままで原作がぼかしている部分であるクローンシステムの残酷さを必要以上に強調し、さらにセンセーショナルにするためにいろいろな設定を付け加えておきながら
最後のぞみヶ崎に向う前、なぜかきょうこにだけはその提供はやって来ない。というなんともふんわりとした都合の良いハナシになっており
とてもがっくりきました。
臓器提供を受けて助かった人に感謝される、提供者にとってそれが救いになるのか。友は命がつながれていくことに目が開かれ「世界は広い」と表現し、提供に臨む意味を見いだしたようにみえました。
でも「ありがとう」の言葉を絶望のどん底にいた友は本当に受け入れられるのか。私には達子先生の言葉が提供者の目線ではなく提供される側に立ったもの言いに思えて、このシーンには違和感を覚えました。
むしろ、提供前の病室で友が口にしたように、恭子に再会できたことで自分の夢がかなった、恭子とともに成長し愛し合うようになりひとときでも幸せな時間を共有できたと思える方が、まだせめてもの救いになる気がします。
柄本佑さんが言っていた、「小さなことでいいから生まれてきてよかったと思いたい」に通じますが、自分の人生を自分自身の理由で肯定できれば、臓器提供を生きる目的として定められたことへのささやかすぎるとはいえ、ひとつの抵抗になり得ると思うのです。
ラストで、恭子は自殺を図ろうとして思いとどまります。自殺は決して肯定されてはならないけれど、少なくとも自分の命は自分のものとして人生を終えることを意味します。それが自分の人生を取り戻す唯一の方法だとすると、悲しすぎますが。
外の世界の人々のエピソードが数々挿入されましたが、提供を肯定している時点で自己正当化の誤魔化しにしか思えず、ドラマとして何を意図したのか、みえませんでした。恭子の最後の独白も、全てを受け入れてしまった諦念のようなものを感じ、どこか納得ができません。たとえ提供で命を絶たれる運命であっても、生きている間はこの身勝手で残酷な世界に抗うように、生きる意味を見いだそうとする主人公を、私は期待していたのだと思います。ただ、ひとり残され、亡くなった者への思慕と過去の思い出が生きる縁(よすが)となれば、こうしたラストもやむを得ないのでしょうか。
それにしても、長く生きることに飽いた人々の存在がクローンによる臓器提供という制度を終わらせるかもしれないとは、どこまで身勝手なのか。何とも絶望的すぎる世界だと思えて、本当にどこまでもやり切れないです。
以前、どなたかが現代の臓器移植の現場について言及されていましたが、本作で描かれる臓器提供はそれとは性質が異なると思います。健康に生きている人の臓器を奪う非人間性は、梁石日氏の『闇の子供たち』などに描かれる、臓器売買を目的とした児童人身売買の現実の方が、本作の臓器提供のもつ無慈悲な残酷さに近いと思います。
自分の期待したラストではなく勝手にもやもやしていますが、全編を通じていろいろなことを感じ考えさせられました。
ハッピーエンドしか受け入れない人たちには、苦しい結末となってしまったかもしれないですが、個人的には満足なラストでした。
クローンで臓器提供の運命をもつ人間という、非現実的で人権無視の世界があまりにも実感が湧かなくて、かなり受け入れがたいですが、提供という運命がなくても人間には誰しもが死の運命をもっていて、突如思いがけない事故や病気などあり、それは様々です。
生きる先に死があっても、人間は希望を持って生きていける。生まれた意味を探すことができる。生きてよかったと思う。大切な人と幸せを共有できる。
わたしは社会に出てすぐに、何で生きなければいけないんだろう。と何のために働くのだろう。と本気で悩んだことがあります。その時に答えを教えてくれたような作品だったな。とすごく心に響いています。
素敵なドラマでした。
売春させるためだけに赤ん坊を何人も産ませ続けられる、女の子が生まれれば売春に回される子供達ですっけ。そんなニュースを思い出しました。わたしには彼女らの気持ちと苦しみは絶対にわからない。このドラマも結局のところ判るはずがなく、俯瞰でずっと観ていました。
エンタメではないです。考えさせられるけれど、答えすら見つからないのですから。クローンたちにかける言葉を持てない。ドラマを超えて私たちが生きる社会で起きる不条理の数々を、想起させられました。
答えを出してはいけない。もやもやとしたものは残るのは必須ではないでしょうか。
恭子は何度も「わからない」という言葉を繰り返していました。本人たちすら出せない、出してしまったら終焉しかないという残酷なものです。
龍子先生は答えにたどり着いてしまい、楽になってしまいましたね。観ているこちらはショックでしたが、同じ世界で同じ人生を歩んでいたらああなってしまうのかな。わたしはこちらの世界で楽な場所にいるから、自己満足だと涙が出てしまったのかな。売春させらる子供を産むだけに子宮を道具化された事件に凍りついても何かするわけでもないのですから。
少し疑問だったのが恵美子先生が老人だから移植を受けないというエピソードでした。同じクローンとしてクローンから臓器提供を受けるほうが滑稽という流れが自然だったように思われます。老人が移植を拒否というエピソードを持ってきたかったのでしょうが。クローンでしかもこの老体になってとしてくれたら良かったかな。恵美子先生もやはり自分は「人間」側という気持ちだったのでしょうか。
かなり不評だったトモですがわたしは好きでした。トモが好きというより、三浦春馬の演技が凄くてひたすら感心してしまったほうが正しかったかもしれません。でも、人間より人間らしい、頼りなく情緒不安なトモをいとおしく感じる恭子には共感ができたな。なんというか、すごいリアルで。恋愛ドラマではほぼみないカップルなのも斬新で良かった。
先に述べたように基本俯瞰で観ていましたが、自殺をするために海に入った恭子に、サッカーボールが行くなと言わんばかりに現れた瞬間、号泣してしまいました。
行くな、ではなく、迎えに来たよとかもしれない。いいえ、偶然、必然、過去、未来、ありとあらゆるメッセージがたぶん籠められた演出にやられてしまいました。
トモのボールで自分の運命を受け入れた恭子は、なにを抱えて生きていけるのでしょうか。
原作のあらすじをすこし目にしたところ、恭子は十年以上介護人をしたということでした。
なにもいえません。
ありがとうもいえません。ごめんなさいも言えません。人間のわたしには。
そういうドラマでした。
作風は違いますがイーストウッドの「チェンジリング」と同じ感覚のラストでした。
製作者の方々には感謝の気持ちでいっぱいです。
ドラマではかなりの挑戦ではなかったでしょうか。お疲れ様でした。
こういう、見たくない社会問題に目を向けた暗いドラマは視聴率がとれない
かといって内容が薄いコメディも、のきなみ視聴率とれていません。
ここ数年で一番視聴率がとれるのは
それなりに事件性や社会問題を扱いながらも、カタルシスのあるような日本マンセー悪役をやっつける系です。
今期の中ではかなり内容がお粗末だった山猫だって、このドラマや恋愛ホームコメディ達に比べたら視聴率良い方です。
作る方もわかっていたんじゃないかな
こういうドラマがあってもいいと思う。
クローンを題材にしたシリアスものなんて、漫画とアニメにしかなかったもの。
それをドラマでやったところに、時代がすすんできた事を感じました。
まあ題材の広さでいったらアメリカに遠く及びませんが
保守的なばかりの日本のドラマはダメだと思う。
こういう挑戦をし続けてほしい。
モヤモヤエンド大嫌いなんで原作通りを期待してたのですが、
原作者のメッセージをより強くする改編だったので納得できました。
クローンの状況をより詳しくしたりや問題定義とも取れるあれやこれやの原作にない設定、ビビッドで物々しい言葉の数々によって悲劇性を強調するやり方は余計だったとわたしは思ってます。
クローンなど行き過ぎた科学技術が生命倫理に抵触するかや社会のあり方に警鐘を鳴らすのが第一義の物語では決してないし、
三人の短命の設定すら比喩で誰にとってもどれだけ長く生きても人生は短いもの、その中でもっともすべき事は何?というのがテーマと作者のいうこと、
原作を読んだ自分も納得でした。
映画では主人公が使命を全うする事がさらにはっきりと提示されました。
ところがキョウコが人生でやるべきことを完遂させる、何によってというところは敢えて暈され、彼女にはいつまでたっても提供通知が来ないという部分を強調したことは
この物語の本来のテーマである人生の猶予のなさ、だからこその煌めきを、鈍いものに収束させてしまったと思います。
終わりは見えていたものの、続きが気になって見ていました。不快に感じる方がいるのもわかるけど、ある意味SFというかそういうものとして目が離せない設定でした。
ドラマだから、平和でみんな幸せってものばかりじゃつまらない。私はこういう作品を今後も見たいと思っています。
残酷で悲しい話でしたけどね。
原作の平易な言葉で紡がれた過去への哀愁という優しい視点を含みながらも、規定されたことは決して覆させない神的な厳粛性をもった話が
このドラマは、センセーショナルにして引きつけてまたいとも簡単にとってつけた様な救いを添付して涙を誘う、商業的なドラマになった。
わたしを離さないでのセリフも蛇足。
恭子になかなか提供通知が来ないという場面を設定したのは、
恭子がいつでも死に臨む覚悟はできているのに、いつまでも
来ない、それなら早くみんなのもとに行きたいという心理的
状況を作りたかったからではないでしょうか。
決して 恭子だけが提供から免除される可能性を示唆している
わけではないと思います。
一度自分から死を選ぼうと思ったところから、大切な人たちと
生きた心のつながりを思い出し、あらためて死が訪れる瞬間まで
宝箱を抱えて生きていこうと自分の意志で選択させたかったので
は。
小説ではもっと淡々と自分の運命を受け入れたのでしょうけど、
そこにドラマ的な演出をほどこしたように見えました。
その最後の時を予感させることをぼかしたことときちんと示唆することの間には天と地ほどの差があります。
それに校長という同じく孤独な人間をもう一人、彼女の側に提示したことも絶対的な断絶感をぼやかしました。
視聴者がより受け入れやすくするためにでしょうが
人間の一生を駆け抜けることは自分でコントロールできるものではなく、何事も唐突にやってきてしっかりと立っていないと一瞬にして流されてしまうような短いものなんだという厳しさの様な迫力の様なものがすっかり矮小化されてしまったと思う。
えっ、これで終わり!?って感じの終わり方だった。
ともは結局3度目で終わったのか??
でも、仲間がみんないなくなって、自分だけ生きてるのも辛いよな・・・。
「私を離さないで」のセリフは入れる必要はなかった。あのタイトルは、単純な謎解きをするようなものではなかったはず。
その意味をいろいろと視聴者に捉えさせる余韻を残してほしかった。
今回、森下さんの脚本に期待していたのだけれど、正直、決して十分満足のいくものではなかった。
途中までは、見る者に安易な共感を許さず、捉え方によってさまざまな感情を抱かせ、さまざまな解釈や思考をさせる、異界の詩情に彩られた今までにないドラマと評価していたのだが、
途中から、いくつか指摘があるように、一定の枠組みへ視聴者を誘導する色が強くなってしまった。
いくら原作が茫漠としていてわかりにくいものであったとしても、途中で破調をきたすような改変を行ったことは、高くは評価できない。
私も、エミコ先生もクローンであったという改変は、無用だったと思う。それによって、最後にクローン同士の交感(の予感)という安易な装置ができあがってしまった。
あくまでも一人の「外の人間」が、何を思って学苑を作り、提供者たちとどう接してきたかを描く方が、はるかに深い物語になっただろう。
終局、「みんな結局は同じ。死期を知っているか知らないだけかの違い」と主人公に言わせたのも、安易に結論に落とした印象をぬぐえない。
何も言わず海に入り、そこでサッカーボールを拾い、静かに海から踵を返して歩み去るだけで十分だった。それだけでも、こちらには押し寄せてくる想いや感情があるのだ。
森下さんに関して言えば、これはいつも同じ印象を持つのだが、綿密で丁寧に作劇は行うけれど、何か中庸から抜けきれない感があって、最後に少々残念感が残る(「天皇の料理番」もそうだったが)。
特に今回のように、非常に特殊な設定のドラマを手がけた場合などは、その中庸さがはっきりと裏目に出たような気がする。
子供時代のは面白かったかもと思ったけど
だんだんつまらないなと感じて観なくなった
最終回は気になったがやっぱりがっかりだった
幼い頃に貰った夢を詰め込む宝箱は、いつからか亡くなった人達の遺品の品でいっぱいになってしまった。着地点を失ってしまったドラマだったと言わざるを得ません。
自分の宿命の知らないまま、陽光を逃げ出して早々に心臓を提供した少年
捕まって殺されるまで何を思ったのか、気になりました。
中途半端。最初はミステリーか愛憎劇かと思いきや、子供時代が長くてしらけ、16歳設定でひき、フリー○○○設定で思いっきりひき、折り返してからは病室と車中シーンだけで引き込まれなかった。
綾瀬さん、バルサの方が似合ってる。
私を離さないで
この題名の意味はドラマを観て、視聴者にそれぞれ考えさせる。そうして欲しかった。
恵美子先生をクローン一号にしたのも残念。恵美子先生はあくまでも外の世界の人間、でも恵美子先生なりのただの家畜としてのクローンではない、心を与える教育をするという思いがあった。その恵美子先生の教育がかえってクローンたちを苦しめたり、また逆に救いにもなったりする事を考えたかった。
同じクローン同士しか結局分かり合えないのかという事になってしまった。
たつこ先生に至っては、ただ偽善者としか思えなかった。
生まれてきてくれてありがとう…たつこ先生のセリフには嫌悪感すら感じた。
クローンにも教育をほどこし、心を与え、魂があることを証明する。それが学園の方針だったようだが、それは果たして心あることだったのか。結局ただの臓器提供者に過ぎないクローンにとって、むしろ残酷なことだったのではないか。では他のほとんどの教育機関でのように、クローンを家畜のように野放しにし、やがては臓器提供者としての運命を歩ませる。それはどうだったのだろう。果たして成功したのだろうか?原作や映画では考えもしなかった疑問が次々と生まれるのが、このドラマを見た結果である。やはり、安易にドラマ化するようなテーマではなかったと言いたい。
単純にドラマというエンターテイメントとして楽しめたかどうか?という観点で最低でした。何も残らない。設定が残酷なので、それをそのまま見せられてもどう捉えろというのだろう?原作の印象はまた別なのでしょうか?原作は読んでいません。あくまでドラマの感想です。
提供者というクローンの存在が暗黙の了解とはいえ世間に浸透しており、さらにそれが極一部の要人のみならず一般人にも施されるという、現実とは特異な世界観の伝え方が弱かったと思う。一般人と提供者の間には姿形は全く同じでもその存在には大きい隔たりがあるということがもう少し重要な点として表現されていたら、現実にも存在するカルト集団と混同しこの施設の子供たちは単なるカルトの被害者であるという勘違いすることはなかったと思う。ドラマ内で演者がドラマの設定をながながと説明する場面ほど冷めるものはないが、それにしても説明不足だった気がする。
終わったの?全話録画してるが一話見た後一向に見る気にならないんだけど消そうかと思う。見る気にならないってことは今後も見ないよね。
録画して観ていたけど、いつも速攻で削除
いろいろ考えさせられた。
でも独特の世界観に引き込まれました。
死を前にしたとき、自分はどれくらい自分らしく心を保って
生きられるだろう、そんなことも考えさせられました。
俳優の皆さん、素晴らしい演技をありがとう・・!
なかなか衝撃的な内容で、先が気になって目が離せなくなった。物語の感想としては、原作も知らないので、素直に観れたと思う。提供者という立場でクローンでありながら人として一生懸命生きてきた若者たちの話。友情、愛情、憎しみ、悲しみ、ちゃんと感情もあるが提供するために生まれてきた人間。最終回まで見終わって、とても恭子やトモ、みわそれぞれに寄り添いたい気持ちになった。そして、現実今自分の周りにいる愛しい家族を思い出す素敵なドラマただったと思う。キャストもみんな演技派の俳優さんでより、物語に引き込まれたと思う。
最終回で、幼少時代脱走して早めの提供者になってしまった「ひろき」が提供者の家族に与えた「今」の話をトモの三回目の提供前にトモや恭子に偶然にも耳に入ったことが、ほんとよかったと思う。トモの晴れ晴れとした笑顔が印象的だった。
そして、そのあとトモが恭子に伝えた「恭子に出会えてよかった、、」からは涙なしでは観れなかった。
あの癇癪もちだったトモは素敵な大人に成長していた、、もう少し、トモと恭子のマッタリした時間を観たかったかな。とても切なかった。
というわけで、私的には過酷な環境に生きた若者たちの生きざま?を見せてもらい感慨深かった。
俳優さんも、よくこんな難しい役を演じたな、、と感無量でした!
何でたつこ先生は手紙で友に絵を描いて、と書いたのかしら?
説明する場面ってありましたか?
あの手紙で猶予があるって信じてしまったと思うんだけど。
ドラマ自体は、色々なメッセージが含まれてるのは分かるけど、結局世界を変えるのは難しいという無力感だけが残って後味悪い。
せめて犠牲になってくれるものに対して感謝をすればそれでいのか、というのも何か違う気するし。
でも友が最後に気づきがあって、最後を迎えられたのは良かったと思ったかな。
面白くはなかったけど、結局最後までみたんで星3つ。
この脚本家が来年大河ドラマだそうですが、
天皇の料理番や今作を見てきて
演歌節のゴッテゴテなお涙大河ドラマになりそうで、嫌だなぁ。
あまり大げさな言葉で飾り立てすぎずに、ドラマを描いて欲しいです。
極端な刺激的な単語を使わずにも、豊穣な深い物語を書いている作家はたくさんいます。
カズオイシグロもそのタイプです。
やっぱり厳しいです。
見なければ良かったという感想がありましたが、どちらかというと私もちょっと思いました。
映像で入ってくると、文章よりもストレートに衝撃を受ける感じがします。
自分なりの受け止め方によって色々と変わってくるのだろうと思いますが、私にはちょっと重すぎました。
最後はもうちょっと違う形を思い描いていました。
録画していたのを今日やっと見ました。
都合があって、リアルタイムで見れないので、視聴率に貢献出来ないのが悲しい。
生きることは、つらく悲しい。
そして、同時に光に包まれている。
なんか、そんなことを思った。
1話からすべて、じっくり見てきた。恭子は友彦を見送ることができてよかった。恭子が「私を離さないで」と絞るような声で言うところは自然と涙が出た。「体は離れ離れになっても、心は離さないで。」恭子のところにはまだ提供の知らせがないことが残酷で、恭子があの岬で入水自殺を図ろうとする気持ちはわかった。友彦の分身?であるサッカーボールは、「離さないよ。恭子も使命を全うしなければいけないよ。」と伝えに来たのだろうか?
久しぶりに重みのあるドラマ、静の演技を見たと思う。そこを認めた上で思うことは、この内容では日本では魅力を感じる人が少ないだろうなということ。これだけの役者さんを揃えるのであれば、生きるとか、命を扱うにしても、もう少し、分かりやすい方がよかったと思う。役者さんは皆さん素晴らしかったので、勿体ない。
自分も録画してたけど、全話消した。
1話から録画して一応全て見たけど本当につまらないドラマだった。
原作や映画には遠く及ばないドラマ。あらゆる意味で中途半端になり、何を伝えたいのか、何を訴えたいのか、最後まで全く分からなかった。
日本のドラマが単純で分かりやすい思考停止促進ドラマばかりになっちゃうと辛いんでリスクをとってくれたスタッフに感謝してます。
思考停止しちゃう人がいかに多いかよく分かったと思うので、そういった人たちにどう伝えるかスタッフは今後の参考になったでしょうね。
見た後の後味の悪さはなかなか。
で何がいいたいの?どこに共感して欲しいの?
ただただ暗い残念な内容でした。原作はどうかはわかりませんが、ドラマとしては失敗かと。
活字と映像じゃ特技が違うから、ドラマはドラマで楽しみました。
抵抗するマナミのオリジナル展開が原作の一人称では描けない側面が出ていて良かったかな。
社会を俯瞰する視点があったのが良かったです。
これ本当よく連ドラにしたなと思うw
病室でトモと恭子がついに心を通わせた直後にハダカで抱き合うベットインのシーンがあったのは、様々な障害を乗り越えて達成したせっかくの純愛が、とんでもなく薄っぺらいものになった気がしました。その演出いる?結局コテージに居る時に、やったかやらないか、だけの関係なの?と...
なんだか低評価でびっくりしました。
何が伝えたかったのかわからない
ただひたすら暗い話だった
って意見が多いですが、そこは観た人の感性とか、
考える力の差だと思いました。
わたしはこのドラマを毎週みるたびに
すごく色々なことを考えたし、たくさんのことを
得ました。
原作、映画はまだ観ていませんが、
ドラマ版は、これはこれで一つの作品として、
視聴者に考えさせてくれる、素晴らしいものだと
感じました。ありがとうございました。
わかりやすい、端的でつまらないドラマが増えている中、この作品はまったく正反対。実に面白かった。
最近の若い人たちは、考えたり想像したり、そういうことがあまりうまくできないんだろうか。
人生の中で、様々な経験をしてきた私のような者には、ずっしりと響いたのではないだろうか。
このように、観るものによって捉え方の変わる、考える余地のあるドラマが減ってきているので、この作品は素晴らしいと思う。
長編小説が原作なだけある。小説を読んでいるように、脳をフル回転させて観れた。
こういう作品を是非増やしてほしい。
脚本家に本当に何か伝えたいものがあったのだとしたら、それが視聴者にうまく伝わらなかったのは、視聴者の責任ではなく、伝える方の能力の問題だと思う。原作や映画があんなにも素晴らしいレベルの高いものだっただけに、残念です。
原作既読組です。
このドラマは、原作にはいないマナミを登場させたことから、彼女の遺言である「生まれてきて良かったと思えることを見つける」ことにテーマを絞ったと思います。最終回の冒頭で加藤にも言わせていましたし。原作は様々な読み方が出来ますが(人が命をコントロールする世界の是非・摂取される側の生き方・教育(洗脳)について・偽善的活動への警鐘などなど)ドラマでは視聴者に「限られた命をどう生きるか」を一途に問い、最終章でそれぞれのハッピーエンドが示されたと思います。
まず美和の場合。大好きな恭子と分かり合えた。そして最期には、恐怖を受けとめてくれる「親友」恭子がいた。美和にとっての魔法の言葉(天使)も思い出させてもらえた。
トモの場合。夢を追い続けることが人生そのものだったトモ。最後には夢は叶っていたと悟ることが出来た。私は、トモはタツコ先生の感謝に助けられたのではなく、彼女もトモと同じように失敗を繰り返しながら夢を追う人だったことが分かったことが、トモを助けたのだと思う。生まれてきて良かった、こんな終わり方が出来て良かった、というトモの言葉に涙が出ました。その上、最期には、3度目で死ねないことを阻止してくれる恭子がいた。私は、トモと恭子は恋人同士というより、ソウルメイトな関係だったと思う。原作では、知りたがりのトモ&恭子と、信じたがりの美和、というように対比させています。
恭子の場合。美和とトモに良い終わり方をさせてあげたこと自体が彼女の「生まれてきて良かったこと」だったと思う。彼女自身の浄化にもなった。仲間が去って孤独になったが、同時に解放もされたと思う。それが、生きる意味を知ることへと繋がった。私は、自分が死ぬまでにそれを実感できるのか、考えさせられました。
提供やらクローンやら猶予やら、とても残酷な世界ですが、生きるとは何かを考えるには適した設定だと思います。逆に言うと、これ以外の設定であれば、ここまで生き様・死に様を考えることもなかったかと。
星ひとつ減らしたのは、無理やりタイトルを言わせたことと、最後のエミコ先生の誘いかけ(後継者??)が蛇足だったと思うから。特にエミコ先生の誘いかけは、前提を覆す安易な希望に感じました。誘いかけの答えは出ていないので、思い出話でもしたかったんだろう、と思うことにしました。
毎クールこのようなドラマがあると精神的にキツいけど、録画を残し、数年後にまた見たいと思います。
原作に手を入れて、アウトラインのはっきりした物語に仕立てようとしたようでそうでもなく、曖昧模糊としているかと思えばセンセーショナルでショッキングな要素を強調してみたり、バランスが悪かったなあ、という印象。
そういう意味では、中途半端だ、という感想が出てくるのもしかたないだろう。
話のいろいろな部分に亀裂が入るのも気になった。
恭子の「誰とでも寝る女」設定を伏線もなく突然持ち出して話を急転直下させてみたり、逆に思わせぶりに涙を流すマダムの伏線を回収しなかったり。
タツコ先生が「陽光はあなたたちのことを守ろうとしている。エミコ先生を訪ねて」と彼らに(虚しい)希望を持たせたあの言葉は何だったのか、それについても回収はなく、最後に安っぽいとさえ見える「ありがとう」の言葉で締めてみたり。
タイトルは、彼らの頭に残った、そして象徴的な歌の1フレーズにすぎないのに、それを無理やりセリフに仕立てて言わせてみたり。
首をかしげるようなことがけっこう多かった。
伏線回収については、別にくだくだしい説明は必要ない。暗示的でかまわないから、蒔いた種は刈り取らないと、物語はがたついてしまう。
このような難しい小説をドラマにした制作陣の意気は買う。それは初めから変わらない。
また、難しい設定の役を演じきった俳優陣にも拍手を送りたい。
特に三浦くん。希望敗れて沈黙のまま車窓に映る目の演技もそうだったが、タツコ先生に「ありがとう」と言われ、恭子に生まれてきてよかったと告げながら、どこか虚無を残した目の表情も出色だった。
彼でなければ、ここまで繊細な表現はできなかったろうと思うほど。
それだけに、全体を振り返ってみると、残念感が残る。
この小説を映画化した作品を見ても原作を読んでも、希望を捨てないでとか、1日を精一杯生きて行なさいとか、そういう綺麗なだけのメッセージとは少し違うとわたしは思う。
この話は、この世に生を受け訳もわからないうちに大きくなって社会に放り出され、
ようやくおぼろげながら社会の全容がわかってきた頃には運命の壁はすでに高く、
どうすればとおろおろするうちに、タイムリミットが現実的に。
そして優しい奇跡なんてこの世には存在しなかったということを知った時、
人は容赦のない運命をどう受け入れていくか??という事なのでは?
そしてそんな時に振り返ればそっと寄り添ってくれる思い出のもたらす力の大きさなど。
ですから社会の視点は必要だとは私は思いません。
また、海で主人公が立ち返る為の奇跡、サッカーボールがタイミングよく流れてくるというシーンも描く必要が無かったと思う。
もちろん映画にはなかった。
映画ではヒロインは彼を景色の中に思い浮かべて、自分で自分の運命に戻っていった。
ヒロインだけにはなぜか提供通知が来ないなんてことも無かった。
ドラマ版は社会的な問題提起で深刻さ過酷さ強めたのに、最後は奇跡で生きる励ましを、そして主役だけに提供が始まらないというなぜか特別な時間を示唆したこと、とても余計だと感じました。
海でボールが流れてきたとおもったら似てるけど違うものだった、などならまだよかった。
結局何も変わりはしない、自分が知ってしまった運命を受け入れるだけ。逃げることは許されない、でも臓器提供されることで寿命を延ばすことに疑問に思う人も増えてきていると恵美子先生は言った。確かに助かる命が多くなるほど、社会は逆に貧困化していくのではないかと。ふとそう思った。
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