




![]() |
5 | ![]() ![]() |
962件 |
![]() |
4 | ![]() ![]() |
110件 |
![]() |
3 | ![]() ![]() |
43件 |
![]() |
2 | ![]() ![]() |
60件 |
![]() |
1 | ![]() ![]() |
213件 |
合計 | 1388件 |
そうだね。
よい子のみんなはまねしないようにしましょう、的な。
こういうキャラたちみたいになってまわりに許されるようになるためには
その前にやらなきゃいけないことがどれだけあるか・・・ってこと。
アキみたいにコロコロ変わっても誰でもがそうなれるってもんじゃない。
キョンキョンになるなんて一朝一夕にはいかない。
うわ、われながらとってもPTA的発言?!
キャスティングで助けられるっていうのは確かにある。
でも基本ドラマや映画は所詮作り物ってことですよね。
個性派とかでない限り、女優さんは基本可愛い、綺麗っていうのは基本だもん。
まあこんなこと言うのもなんだけど・・・たとえばカーネにしたって、リアリティ重視で小篠綾子さんそっくりな人を見つけてきてやらせても・・・見る気が起きるだろうかといえば疑問。
そのつくりものの中でもあまちゃんは特に俳優の元々持ってる魅力に頼ったところが大きい、ってことだと思う。
カーネーションの糸子などは尾野真千子さんや夏木マリさんの元々のカリスマ性みたいなものに頼ったのではなくもっぱら彼女たちの演技力とキャラ設定そのもので納得させることができたドラマだったと思う。
あまちゃんは作者自身もそこを見抜いて作ったのだと思うけれど元々他の人とはちがうもの、非常識なことをやっても笑いやカッコ良さに変えちゃう魅力があることが前提のキャラ設定だったと思う。
それが本当に上手く発揮できたからこれだけストーリー自体がスカスカ、普通ならゆるされないだろう、これじゃ世間じゃやってけないだろう・・が逆に魅力的に見えたりしたのではないかな。
ドラマや映画がつくりもの、ということはわかっているしそのつくりものの中でも実にいろいろな形がある、ということだと思う。
それを現実と合わせて考えた場合、糸子のような人物は実在可能(っていうか元々実在の人がモデル)だけど、あまちゃんのキャラのような人達は現実にはこれで生きてくのは不可能で基本漫画キャラ、という感じなのだと思う。
マンガ的であり、非現実であり、実際には通用しない、それ判っているからこそ、ブラックなジョークもニヤリで済ませられたし、そこそこお祭り気分でノリを楽しんだって人の一人です。
そういう見方で楽しんでくれることを作者はのぞんだんだろうね
紅白で自分が作ったくせに「やっぱりヘンなものはヘン」ってクドカンさん言ってたもんね
ヒロインが自分でバカみてぇなドラマって言ってたし
のれた人はもうそれだけで高揚感があってたまらなかったんだろうけど
そうじゃない人はちっともおもしろくない、へんだったりバカみたいなところ
ばかりが目についてくどい、とか感じたり、一方元々クドカン作品のバカバカしさは
こんなもんじゃない、っていう旧来のクドカンファンには物足りない、ってことだったのかも
そうですね、この作品にはノリはあったけど、また観たいと惹きつけられるもの、このキャラの性格がたまらなく好きみたいなものはなかったんですよね・・・クドカンさんの他の作品の中には(すべての作品ではありませんが)それがあったのですが。
年末の特集を観て今ハマってる人がいるらしい
「じぇじぇじぇ~」を連発。
いや年明けたら古いよwwと突っ込んだ。
なんで去年観てないんだよとは突っ込まなかったww
トレンディなものはすぐに古くなりますからね。
もうそのことを口にするのさえ気恥ずかしくなったりするもの。
じぇじぇじぇ、なんていまだに引っ張ってる人はおそらく早晩大ツッコミをくらうことでしょう。
でも歴史はくり返す、ともいいますからまた数年たったらじぇじぇじぇじぇいう人出て来ますよ。
ガチョーンとかコマネチ、そんなの関係ねぇレベルにはもってけるんでしょうかね。
キャスティングに助けられたというより、意図的に選んだキャスティングであり、さらにはキャストに合わせて役柄をアレンジしたのだと思う。
そうだと思う。
だからそれぞれの役はピッタリ、というのかその人に合わせてその人の魅力が出るように作られている。
そしていかにもその人物の面白みが感じられるように作ってあるところがドラマというよりはとてもコント的。
音楽も全体的に良かったし鉄拳のイラストも効果的に使われていた。
でもやはりドラマ、という感じがしない作品でありここでも多くの方が言われてるように心に残るようなもの、深い感動を与えるもの、とかが全くなかった。
コメディとしては今一つ突き抜け感に欠けたし、コメディ特有の人情は伝わって来なかった。
私はリアスに集まる個性派キャラがみな根が温かく、とても魅力的だったと思う。クドカンファンとしては表現が抑え目でやや物足りなさを感じる部分もあったけど、個々のキャラクターは十分に描かれていると思う。昔ながらの人情喜劇とは違うけれど、ジーンとして涙がこみ上げたり、ああ、このシーンいいなぁ、と思うことも結構あったし。まあまあのドラマだったと思います。
完成度や充実感とは違うけど、十分に楽しませてもらったエンターテイメントな作品でした。
年末まで楽しませていただきました。
満足しました。視聴率は予想通りでした。
エンターテイメントであるのは確かですが、時々このドラマがドラマとして完成度が低い、ゆえにあまり面白くないという意味のコメントをお見かけしますが、このドラマはコメディ要素が高いと思います。
また飛躍といわれそうですが、某衛星放送でやっているアメリカのコメディ映画はウェス・アンダーソン監督が脚本もてがけていますが、わけがわからない程、不条理です。
でもそれぞれの人生やその人にかかわる人達そのものを徹底的にそれこそおちょくるというか、見方を変えればこんなにおかしいんだよ、ということを強烈な風刺でばっかばかしく描きまくっています。
その映画はゴールデングローブ賞のコメディ部門で栄冠をとっています。
日本にはコメディ部門って賞はないんでしたっけ。あったらクドカンはぶっちぎりで栄冠とりまくりでしょうね。ドラマとして7冠とったからもはや偉業です。日本人にはコメディやパロディはあまり理解はされないのでしょうか。
パロディでいえば関係ないですが、マイケル・ジャクソンの「BAD」をFAT」(デブ)というパロディで巨漢ばかりを集めてパロディのBADそっくりのPVをつくったひとは、特殊メイクで巨漢になり、決めゼリフを、「俺が一番FAT(デブ)なんだ!」とパロディしまくってました。
向こうではパロディに対しては好意的なんだそうです。
過去とんねるずがマイケル・ジャクソンの同じ「BAD」やMCハマーをめちゃくちゃお金かけてパロディ撮っていましたよね。でもそれ以来日本にそういうのが残ってないとなると日本人には本質的にコメディやパロディは受け入れられないんだな、と感じました。受け入れられているのは芸人によるお笑いです。とんねるずのような笑いになるのは仕方ないかもしれません。
コメディやパロディをしかめつらしく考えるところが日本人の国民性なんだなあ、という考えに至りました。土壌が出来ていないんですね。
、、、やっぱり飛躍だの乱暴だのいわれそう。。。
コメディを受け入れてはいるけど、文化的に高い評価を付けない傾向がありますね。
あの寅さんでやっとですから。
いわゆるコンテンポラリーなストーリー(朝ドラとして)を期待された方(観光海女の物語で通して欲しかったとか)には、我慢のならいドラマだったでしょうね。
ところで他で能年さんをコメディエンヌコメディエンヌいってる方をお見かけしますが、個人的には、観光海女さん姿のおでこ出して鉢巻をしたお顔が、赤毛のアンにどうしても見えてしまいます。どうしても連想してしまいます。そう思って能年さんの画像検索したら偶然赤毛のお下げ髪のウィッグつけた姿が!
やっぱりめっちゃ可愛かったです。
あ、感想とは関係ありませんでした。
2013-01-09 13:22:34です
デブ、という表現が差別的ではばかられたので、
あえて、巨漢(体の大きな男)、としました。
実際はすもうとりの様な体型の男です。
「FAT」を始めて観た時はわけわかんなかったなあ。いろいろな意味で。
アキのヒロシに対する舌打ちが度々取りざたされますが、海女カフェの制作段階から関わっていた、というより実質内装ヒロシだけでやっていた、いわば関係者が、いろいろメニューをきいた後で、「じゃ、コーヒー」といった=一番安い=売り上げに貢献しない→発起人兼従業員のアキは「チッ(舌打ち)」&「この人コーヒーだけ」になる訳です。知り合い兼関係者だから、です。
おしむらくはアキが接客業についてずぶの素人で、先輩や指導する人がいなかったのが、ああいう態度に出てしまったと。
実際の接客業で客が一番安いものを頼んだからといってああいう態度は許されません。アキは売り上げのことだけで頭いっぱいで、関係者だからそうした。
昔接客業をしていた者の意見として。
別にむずかしく考えることもない気もするけど。
ヒロシに舌打ちとか、クドカン流の毒ある笑いでしょう。
あの状況で舌打ちするなんてまったく嫌なヤツと思う人はどうしてもそういうものが嫌だし、人をいじくった笑いは頂けないと思うのだろうし、それがクドカンの笑いのひとつで独特のいじりネタのひとつ、と思える人には、別に笑点の大喜利でお互いにいじりあって笑いとるのと同じくらいのもので、大袈裟に取り上げて責めることもないで済ませられるってことなだけと思う。
そう、そんな感じですよね、クドカンの作品って。
確かに毒のある部分はあると思います。
今さらだけど紅白暦の上ではディセンバーの、片足を膝の位置まで膝を折って横に2回上げて、もう片足も2回上げる振り付け、か、かわいい。
アイドルでこんなかわいい振り付け見たことない。
ドラマでは太巻がすべて振り付けしたことになってますよね。太巻あれを一人で踊りながら考えたのかと思うとくすっと笑ってしまう(^^)
同じく「暦の上ではデイセンバー」で
♪お正月までは~ 一緒にいたくな~い♪
(アッカンベー) ←この部分
の振りがあんなに似合うのは 能年玲奈ちゃんしかいないっ!
ドラマの中で見たとき か、かわいい
と思いました。
>コメディやパロディをしかめつらしく考えるところが日本人の国民性なんだなあ、という考えに至りました。土壌が出来ていないんですね。
私はコメディやパロディは大好きです。
そしてその観点から言ってもあまちゃんはコメディドラマ、としては中途半端だったと感じています。バカバカしいものが受け入れられないほど今の日本の土壌が固い、なんていうことはもはやないと思いますし、バカバカしいからあまちゃんが嫌い、とかいう理由だけであまちゃんを批判するコメントはここではあまりないのでは?
Fat や Eat It はマイケルの大ヒット曲をパロッた作品としてものすごくインパクトがあり、私はマイケル自身も大好きなので、それらは、実によく出来たパロディとして笑い転げて大変楽しかったのですが、あれはドラマではありません。このドラマの太巻なんか言って見れば同じようなパロディとしては大変おもしろかったです。
今はコメディも大ヒットします。三谷幸喜の作品なんて全部ではありませんが、コメディとして大変よく出来ていると思いますが、クドカンの作品も木更津キャッツアイ、謝罪の王様、そして真夜中の弥次さん喜多さんなども好き嫌いはあるとしてもコメディとして私は面白いと思います。寅さんシリーズはオンタイムであまり見たことなかったのですが、時々TVで放映しているのを見るとやっぱり日本のコメディとしてはかなりよく出来ていると感じます。
一方あまちゃんは純粋なコメディと言うには中途半端な作品だと思います。
全編通して徹底的にバカバカしい、ヒロインがもうとんでもない、というものとは違いなんだかところどころに妙にシリアスな問題が見え隠れする。寅さんや三谷作品のようにバカバカしさの中にそこはかとない人情が感じられるようなものでもありません。夏ばっぱやユイちゃんの感動場面は断片的にはグッとくるようなものはあるのですが、全体的なコメディとしてのバカバカしさやおかしさからは完全に浮いてしまっています。
朝ドラ、ということで、逆に日本の人、特にこれまでの朝ドラを見ているような層にはあまりにハチャメチャ過ぎるものは受け入れられないだろう、と変に気を使ってしまった作り、ということが見えてしまうところが、残念ながらクドカンのコメディ作品としての完成度を低くしてしまったと私は思います。
パロディも断片的にはおもしろいのですが、全体のストーリーの中での意味があまりなく、パロッた人物のキャラ自体があまりに表面的で、キャラとしての魅力が完結してなくて終わってみるとインパクトには欠けます。
アメリカでも日本でもパロディとかコメディ、とか言うのはただおもしろければ良い、というものではないと思います。やはりその中で良し悪しはあるものだと思います。あまちゃんはただ一回一回の爆発的な笑いだけをとることだけを目的としたドラマではない、ということから考えるとやはり中途半端なコメディだったと私は思っています。
このドラマが楽しめた人はそれでも個人的にいろいろ面白かった、楽しかった、ということですごく良かったのでは、と思います。
しかし、これがコメディ作品として素晴らしい、とか日本人はコメディやパロディが分からないからこのドラマの面白さが理解でいないのだ、というご意見には私は大変な疑問を感じます。
能年ちゃんはコメディ的部分の間が非常に良くてなかなかすごい!
しかしアキは純粋コメディのヒロインとしてはいささか爆発しきれていません。
ホンモノのコメディエンヌというなら昔のアメリカのコメディ(わからない人ごめんなさい)ルーシーショー(I Love Lucy)のルシール・ボールさんくらいの人じゃないかと思います。
能年さんにも彼女のためにバリバリのコメディを誰か書いてあげてやらせてあげて欲しいなあ。見てみたいです。
山田花子さんなんかとどちらがインパクトあるもの演ってくれるかなあ・・・
2014-01-10 19:48:39 名前無しですが、最後の行、理解でいないのでは、ではなく
理解できないのでは、の間違いです。すみません。
2014-01-09 13:22:34です
2014-01-10 19:48:39 名前無し様
丁寧なご回答ありがとうございます。
やっぱり個人的意見は独断と偏見が入るので、こういう見方もあります、という貴重なご意見が聞けてここはやはりいいですね。
何より自分の為になりますしね。
私のマニアックな例えはわからなかった人も多かったかもしれません。すみません。
つい花巻さんモードに入ってしまいました。わかる奴だけわかれば、の世界でしたね。
個人的にはFATわかる人がいらして嬉しい!(注、皆さんをなめているわけではありません。すいません)
補足
私も太巻は存在自体がパロディ中のパロディだと思います。
アル・ヤンコビック知ってれば「わかる奴」ですか(笑)
個人的にあまちゃんのコメディなりパロディは、“押し付けがましさ”がすごく嫌でしたね。しつこくてくどくて。
劇中でパロディの元ネタをいちいち説明する、なんてのも(それこそ花巻さんでしたか)、不粋の骨頂、とても質の高いパロディ/コメディとは言えないと思っていました。
2014-01-10 19:48:39さんに同意です。特に最終段。
ここで言えば、アル・ヤンコビックだのルシール・ボールだの言って見れば一昔前の花巻さんクラスの笑いが分かっている人には説明はいらなくても一般大衆が見るようなNHKの朝ドラではどうしても説明的なことまで入れないとちっともわからない人がいる、ということでそういうのまで(親切に)入れてくれたんでしょう。なら最初からやらなきゃいいのにねぇ(笑)
ギャグがくどい、のはクドカン作品にありがちな小学生、中学生男子的、というのか・・・
それはそれで面白さが分かる人もいて良いと思うんですが、それとなんだか震災だの家庭崩壊だの実にシリアスかつ現実的な問題をからませるからなんというのかちぐはぐで純粋なコメディーとかコントみたいにギャハギャハ笑ってすまされない部分も出て来ちゃうんですよね。どことなくストーリー全体に心に引っかかるものがある。
アイドルに関しても老若男女にウケようとしたのか新旧取り混ぜて出してくる。
サービスしよう、どの世代も楽しめるようにしよう、とした結果なんだかちぐはぐなものになった部分があると思います。なぜ夏ばっぱが橋幸夫の大ファンでなければならなかったか、なんてストーリー的にはどうしても理解できない。
でも、これまでこんなタイプ、こんな素材の朝ドラもなかったし、一見朝ドラという場所にそぐわないような要素を入れた、ということでとても面白いと感じた人達も多かったのでは、と思われます。じぇじぇじぇ、などそれこそ衝撃的な言葉使いも伴って。
なので、部分部分はそれなりに面白い、でも全体的にドラマとして見た場合、やはりそれほどまとまりのある完成度の高いものには私はどうしても思えない、というのが正直な感想です。
まああまり深く考えず、こういうのもあり、と見ていましたし、それでいいのかも、と思ってました。
ルーシー・ショー懐かしいですね。私はほんの小さなころの遠い記憶にかすかに残っているだけだけど、確かに面白かった気が。
でもあれって朝ドラのような連続ものではなかったですよね。少なくとも毎日放送されるような。毎話、テーマが異なるシチュエーションコメディーではなかったですか? もし記憶が違っていたらごめんなさい。あの爆発的な笑いはそういう作品だから生まれたもので、連続ドラマに求めるのはちょっと違う気もします。
いつでも夢をに絡ませての橋さん出演は、中高年にサービスしてるきみまろさんのようなのりだったな。
僕らフォークダンスの手を取れば♫若き日の勉さんはあのファッションだったし、学校の体育館で歌謡ショーをやっていた地方の娯楽と文化が懐かしくなり、地元に帰ろうって気にさせてくれたよ。
太巻さんにはもっと暴れて欲しかったのでで、これからの古田さんに期待。
あまちゃんは逆に連続ドラマなのにシチュエーションコメディとかコントみたいな要素が非常に強かったのではありませんか?
半年も続いたこの作品をコメディと呼ぶなら、もっとストーリーの重視、キャラのはっきりとした輪郭が欲しかったと思います。
連続ドラマとしてのコメディなら、やはりその場その場だけの笑いを取るのではなく、笑えるものであっても話やキャラに連続性や一貫性、いかにもその人らしさ、とかが日を追うごとに伝わって来る感じが欲しいですよね。
そのあたりがたとえば寅さんとか釣りバカシリーズなどにあるような、見ているうちに登場人物一人一人にじわじわと感じる面白み、親しみ、そういうものがあまちゃんには非常に少なかったと感じます。シリーズ化して長く見たい、という感じはしません。そう感じた人もいたと思いますが、少なくとも私はどの登場人物にもその場の可笑しさだけでそういうものを感じられませんでした。ヒロインもただその場その場を適当に切り抜けていくばかりで人としてどこがそんなに面白いのかよくわかりません。
見終わっても何となく人物がボヤけているんですね。太巻などもパロディとしての面白さは十分ありました。でも彼が一体本当にはどういう人物なのか、作者はどういう人物として受け取って欲しかったのか、がよく分からず、単なる表面的パロディの域にとどまっているのです。その割には何だかずっと主要人物のように登場していた。
シチュエーションコメディと連続性、ストーリー性のあるコメディ、どっちつかずのものだった、という理由で私はこのドラマがコメディとして一級品だったと評価することができません。
そう、面白い要素はいっぱいあるんだよね。だからその日その日は楽しめた。
これまでの朝ドラとは違って爆発的笑いもマニアックでホントに笑えるのもたくさんあった。
でも連続ドラマとして見た場合、全体的にどことなくまとまりやしまりが感じられない気がした。というかやっぱり話そのものが、え?そういう方向?っていうことが多かったりキャラにもコメディなりの掘り下げが感じられなかった。
朝ドラに一級のコメディはいらない。バカみてえで充分だった私。
そういう見方も十分あり、と思う
だから人気になったんでしょ?
自分はコメディと言うならやっぱりより一級品に近いものは期待するよ
つーかこのドラマ、純粋なコメディには見えない
2014-01-10 20:59:00 ( 2014-01-09 13:22:34 )名前無し様
2014-01-10 19:48:39 名前無しです。
遅くなりましたが、コメントありがとうございました。
私も
>このドラマはコメディ要素が高いと思います。
このご意見にはもちろん同意の上でのことですし、パロディについても太巻や花巻さんのフレディ・マーキュリー、またアキバ系アイドル、オタク・・・大変よく特徴をとらえ一抹のアイロニーも感じられて見事だったと感じています。
その上で、これまでのここのコメントであまちゃんのコメディとしての面白さが分からない人が批判する、という主旨のものを数回見た記憶があったので、コメディやパロディというものへの個人的な希望を交えての意見を書かせていただいたまで、です。
趣旨をお汲み取り頂けたこと嬉しく感じました。私自身もここでは他の方のご意見や反論などでいろいろ気づくこと、改めて考えることが多くとても自分のためになっていると常々感じています。
しばらくすっかり忘れていたヤンコビックを思い出させて頂き、最近あれほどインパクトのあるパロディをなかなか見ないものだと思いますし、日本では西洋諸国に比べて、アイロニカル、シニカルなものを受け入れる土壌、というのか度量は相対的には少ないかも、とは思っています。コメディ映画やドラマは昔よりはずっと市民権を得て来ていると思います。
2014-01-11 10:56:21 名前無し様
2014-01-09 13:22:34です。
同感、同意です。
コメディを受け入れる土壌がない、という意味のコメントは撤回します。確かにコメディは受け入れられていますものね。
貴方のおっしゃる通り、アイロニカルなもの、に同意です。ちゃんとわかってらっしゃる方も当然いる上で、ですもちろん。
訂正
>アイロニカルなもの→
>アイロニカル、シニカルなものを受け入れる土壌、というのか度量は相対的には少ないかも、
でした。
コメディアンという言葉が日本で通用するようになったのは、戦後の高度経済成長期からではないでしょうか。漫才、喜劇、落語などはずっと昔からのものでしょう。
そう考えれば日本人は昔から笑いが好きだった。
笑えない苦しい時代もあった。
コメディや笑いの質や好みは時代や人それぞれのものがあると感じました。
花巻さんのような女子が今後増えるでしょうね。
紅白で松潤にタッチしてるおばさんたちも良かったな。
ただの笑いとひとつのコメディ(喜劇)と呼べる作品とは違うと思います。
個人的にどういう笑いが好きか、ということと作品としての一つのドラマが喜劇として優れているか否か、は全く別のことです。
あまちゃんがコメディ(喜劇)と呼べる、ということになればここであってもその良し悪しをそれぞれが根拠を上げて語ることには別に何の問題もないと思います。
同意
>アイロニカル、シニカルなものを受け入れる土壌が少ない
チャップリンのような社会を風刺した喜劇を認めない、そんな時代が昭和にあったように私は想像します。
アイロニカルとかシニカルなパロディには実は根底にそれなりの確固たる「思想」とかがあるからメチャクチャおもしろかったりするものなんだと思います。
そのあたりがよく言えば柔軟、悪く言えば確固たる思想を持つことをよしとしない、そういう日本人気質がそういうものが育ちにくいこの国の土壌と全く無関係ではないかも。
良い、悪いの問題ではなくて文化的な特徴が関係している、ということで。
あまちゃんのパロディなどは面白くはありますが、思想、とかに基づいたものではなくあくまで形態的なパロディにとどまっているような気がします。
一時認められなかった、と予想されるチャップリンの風刺には根底にある思想が、確固たる全体主義的思想にとって都合が悪い、といういうことで圧力が働いたと考えることはできると思います。
あまちゃんとは直接関係ないけどパロディつながりでってことで。
M.Jacksonの歌のパロディである Eat It とか Fat には当時の飽食アメリカ人を痛烈に皮肉ったものが感じられました。
その意味で同じパロディでもそういう思想は確かに感じられますね。
一方このドラマの太巻には確かに皮肉ってるものを感じる人もいたと思います。でもドラマの中のキャラとしての太巻には作者自身のそれが良いとも悪いともいう主張は特に私は感じられませんでした。どうせやるならそこまで…ってパロディやるならって思っちゃったりするんですよね、私は。
コントなんかも皆そんな感じ。新聞のパロディ漫画などには痛烈な皮肉を感じるものがあります。
まあ公共放送の朝ドラじゃやろうったってなかなか無理、というのも分かりますが、そういう意味でなーんか中途半端。ドラマはコントと違うと思ってるもので。
ドラマ好きな方つべこべ言ってごめんなさい。気にしないで。
NHKの朝ドラという範囲内で、私は十分登場人物たちのキャラクターは立っていたと思いますけどね。これだけ個性豊かなキャラが登場する朝ドラってそんなにありましたか? しかもそれぞれが深みというよりは人間味にあふれていて、根底に作者の愛情が感じられました。人によって感じ方は様々だけれど、私はほとんどのキャラクターに愛着が感じられて好きだったな。
愛すべきとはいかないまでも、皆どこか憎みきれないところがありましたよね。
私はあまちゃんの登場人物に関してはおふざけがすぎて「おいおい!」とつっこみたくなる吉田駅長などなども含めて嫌だなあと思う人」はいませんでした。太巻も太巻なりの事情がありアキを冷遇した時期もありましたが、やはり根っこの部分はいい人であったんだなと。(ビジネスとしていいかどうかは別ですが・・・)
全体的」に性善説に基づいたキャラ設定だったと思います。
悪い人、というか悪意のある人がいなかった、というのは言えるとは思うけれど特別良い人だなあ、優しい人だなあ、と思える人もひとりもいなかった。ダイナミックな人もいなくて全員小者感。大物感があったのは本人役のさかなクンと橋幸夫だけ。
それもそうだけれど、キャラが立っている、というのもただ見ている分にはおもしろおかしいだけ。ただマンガ的な感じで立っている、っていう感じ。でもドラマ全体の雰囲気から考えるとこのドラマには合っている人物たちだったと思う。
個人的に松田龍平が朝ドラに出た!は私NEWSのトップでした。
しかも萌えキャラになるとはW
あたしはやっぱりヒロシの小池徹平くん
かわいい顔の割に素っとん狂な演技でこれまでとはまた違う魅力を
感じた
なかなか器用な人だ
スポンサーリンク