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えーと、これ 子育てはこうあるべきの 教育ドラマではないと思いますので
ご挨拶がどうあるべきとか 躾がこうあるべきって
ちょっと うーん、違うかと。
あと
何度も
何度も
何度も
言われてると思いますが
否定派は ○○だ!
いや、肯定派の方が ずっと○○だ!
とかって
何度も…ですが
ドッチモ ドッチ 同じ穴の ムジーナ
ですから!!!
ウムムム ドラマの比較で避難をあびるかもしれませんが
カーネでは 尾野真千子さんは 殆ど年齢差のない子ども達を
しっかり母ちゃんして育てています
花アンは…お母さんというより子守を任された姉さん?
又は お話の上手な雇われた人にしか見えません
想像の翼とかそういう外国式の育て方を差し引いても
吉高由里子さんが母に見えない
赤ちゃんの時は何とかなってましたけどね
> ドッチモ ドッチ 同じ穴の ムジーナ
最初に言い出すほうがよくないムジーナですから気をつけましょうね。
ムジーナが出てくるとやっぱりそれおかしいでしょ?って反論ムジーナが出てくるざるを得ないみたいですから。
あと教育ドラマじゃなくてもドラマで親子関係とか見ててえ?って感じることはあるかも。それは別にその人の感想としていいんじゃないのかな。私はあまりぴんと来ないこと多いですが。
コメントのコメントになってしまいます。すみません。
公式サイトにある中園さんのインタビューを読んでみたのですが、アンに共感できなかったとは書いてありません。小学生の時はザッと読んだ程度、アンのゆりかごを読んだら赤毛のアンをどうしても読みたくなった。大人になってから読むと深さが違うってコメントしてます。
それとは別に中園さんはアンについて書いてるのでしょうか?
子どもの時にアンのとりこになった方なら、また別の味わいで脚本を書かれたとは思いますが。
子育てのドラマじゃないから、そこをつつくのは違うっていうのも、なんか違うんじゃないのかな??
このドラマは翻訳家村岡花子の生涯と銘打っているのだし、生涯の中には結婚も子育ても入っていると思うよ。
ドラマって、その人の人生を(もしくは人生の一部を)描くわけだから、そこに出てくることがいいか悪いかって感想があるのはとても普通のことなのではないかな。
花子の子育てや、登場人物のマナーもドラマを構成するものごとのひとつ。もっと言うならその人物をどんな人に見せるか、それがわかる大切な描写だと思う。
そういうことに違和感が出るのは、役のイメージと違ったり、不快感みたいなものだったりするので、感想としてとてもまっとうだと思いますよ。
こういったやりとりも感想サイトならあり。
議論になって白熱するならお茶の間移動だけどね。
何故か今日は3回も見てしまいました。
おとうちゃまの神童発言、「こ、こ、この子は天才じゃ〜(イスからガターン)」みたいな、ちょっとおどけて言ってるように見えました。そのあと、「んなアホな」的な笑い声もちゃんと入ってたので…身内しかいないから、思いっきり親バカぶりを見せて、その場を和ませたのかななんて。
みんな揃って歩ちゃんをなぐさめてたのは、現代の家族ぽかったですね。大正のしつけっぽくなかったけど、子育て中の自分の感じ方だと、割とリアリティのある場面だと思いました。
>コメントのコメントになってしまいます。すみません。
この方のように少しは相手の意見を尊重してから異論を展開してもらえるなら理解できるが、
そのほかのいきなり人の感想に反論いれる連中はなんなんだよ。
子どものしつけは こうあるべき。
みたいなところを 望む人もいるのでしょう。
でも わたしは 花子との歩の ココロの遣り取りみたいなのが見えて 村岡家らしい 暖かさがあって よい演出だったと思います。
甘過ぎだなあとは思うけど、目に入れても痛くない程の溺愛ぶりを見せなきゃいけない時期、という明確な意図がわかるから別に違和感とかはないです。初めての子どもで、駄目親になっちゃうくらいの宝物に悲劇が起こる…一連のその顛末の序章ですから。
コメントに対するコメントはいいんじゃないですか。新しい情報を提供するだけだから、別に問題ないですよね。あまり本筋から離れるなら、お茶の間の方がいいと思いますが。
やめましょうと何度も言われているのは、コメントを書く人について、いろいろコメントすることです。「…と書く人は」「…と言ってる人は」「…のファンは」などと、その性格やら傾向やらを十把一絡げに論じてみたり、揶揄したり、非難したりすることです。あるいは、それを根拠に、自分の論を通そうとすることです(多くはこのパターンです)。
そういう言い方は、きわめて雑駁で主観的なことが多いために的外れになりやすく、たいていは読む人の気分を害し、サイトが荒れる原因になります。
そういうものでなければ、だいじょうぶです。
花子がお話で歩むを諭すのはとても良かったけど、個人的にはかよのお店の落書きのところでやって欲しかったなあ。
妹とは言え、外の誰かに迷惑かけてるほうをちゃんとお話してくれたら良かった。
そうでないとやっぱりこのあとも共感できない。
わがままなのはいいんですよー。子供だし。
大人たちがそれを可愛いだけにしちゃうのは、見ていてよくわからないなぁ。
赤ちゃんでまだ喋らないうちなら甘々なのもわかるけどね。
正直、大人たち全員が甘々なのはあり得ないよ
誰かが冷静なはずだもん
やっぱりポヤヤーンドラマだ
2014-08-11 17:17:02
>この吉高さんの花子は翻訳家としてよりも熱心な赤毛のアンの読者をモチーフにヒロインにしたような感じがします。
「アンの読者」ってそんな掴みどころのないもの、モチーフにするとは思えませんが。
脚本家の方は「村岡花子さんはアンに似ている」と仰っていましたよ。
なのでドラマの花子は彼女が抱くアンのイメージが投影されているのではないかと。
ちなみに私は原案本も読みましたが、村岡さんはアンよりむしろモンゴメリーに
境遇含めて似ていると思いましたけどね。
本物の花子さんをよく知らないのでなんとも言えないないんですが、少なくともこのドラマのヒロインの村岡はなさんには正直あまり人間的な魅力は感じません。
あまりにも像がぼやけていて・・・
実物の村岡さんがどんなであってもやはりドラマのヒロインにはそれなりの輝きが欲しいです。蓮子は仲間さん自身が存在するだけで華やかですが、吉高さんは元々仲間さんとはまた雰囲気が違いますしもう少し彼女がただフンワリなんてのじゃなく輝くような脚本を作ってあげたらよかったのに。
花子は特別良い人にももちろん悪い人にも見えないし、特別パワフルにも言動が穏やかで控えめなヒロインとも感じられません。彼女にとって一体人生で何が大切なのか、ということがいまだにぼんやりしていて。道徳的な感覚もあるんだかないんだかよくわからないし、彼女みたいなのが特に心が優しい人というような感じもせず、なんかフツー。現代の女の子の少しおっとり版みたいな感じだけ。
一体何を考えている人なのかがいまひとつよくわからないです。人には想像の翼を広げて、なんて言ってますが、もう長いこと、彼女自身がそれをしている場面など見たことない。それを感じるのは実際の村岡さんが作った物語を劇の台詞のように読んでいる時だけ。
あの物語につながるような感性が花子に全く描かれていません。だからいつもそれだけが浮いてしまっています。
とにかくこのドラマが面白くないのはこれまでも言われて来ましたが、ヒロインの日常的な何かの積み重ねや一貫した情熱みたいなものが全く描かれないこと。普段翻訳につながるようなエピもないのに机に向かって辞書を開いている時だけの翻訳家って感じ。日常のことば使いも特に他の人より素敵だな、と感じることもない。こういう仕事をする人としてとても不自然。いくら見ていてもただエピを並べているだけでこちらの心に伝わってくるものがないですね。まあなんとなくゆったりしたような「雰囲気」〈ムード)だけです。
今の視聴者ってそんなに才能だけである日突然すごいものになるスーパーウーマンみたいなものにあこがれているのでしょうか。
吉高さんの母親、子育て風景は演技的に、というより脚本的に母親という感じはしません。母性のようなものが伝わってこないインスタントおかあならぬお人形ママみたいです。
あと、今日の歩君のおじいちゃん、お父さんがなだめるために畳の上で海水浴。この時代の父親たるもの、あそこまでやるのは時代的にどうかなと思いますし、ほほえましいというより正直愚かしい感じがしてしまいました。昭和生まれの私だって、父や祖父は子供のころけっこう怖い存在でした。
>子どものしつけは こうあるべき。
みたいなところを 望む人もいるのでしょう。
こういう意味でのコメントは少ないのではないのかな。
あくまでひとつのドラマの世界の中でちょっと場面として不自然だな、とか流れとして気になる、とかのレベルでのコメントが多いのだと思います。ドラマの世界のことと現実の世界のことをいっしょくたに考える人ばかりではないと思います。
私は道徳的なこと、と言うより場面として子供中心のことが多過ぎた、尺の取りすぎという感じがしました。
かなりの時間へそを曲げた歩をいい大人が必死になだめる、ってことに使ったのでは?一族にとって可愛くて仕方ない存在と言うことは十分わかりますのであんなに子役の演技に時間をとる必要ないと感じました。子供が嫌いというわけではありませんが見ていて飽きました。
花子サンも、だいぶお年を召して来ましたね。
正直、ここからが正念場だと思います。
このドラマの初日、戦争の業火から防空壕に子供を連れて避難するシーンがありましたが、あれは母親じゃない。
メイクだけで“オバチャン”や“お母さん”を表現するおつもりですか?
是非、芝居で表現して頂きたいモノです。じゃないと、共感なんて有り得ない。
うーん、ほかの人の子供を誰かや世間が神童、というのはよくあるけれど
当の親が自分の子供にそういうほめ方をする、と言うのはあまり聞いたことない
ことばだけ知ってる教養がないただの親ばかみたいに見えてしまう
おとうはともかく英治はがっかり
なんか日本の文化や風習を無視しているところがちょいちょいあるドラマ
ココ見てたらどうやらあの子にこの先何か起こるらしいとのことだけど(ホントはちょっとそういうのってネタバレ的だよね、私は気にしませんが)だからってただの溺愛だけが子供に対する愛情表現とは思いません。倫理がどう、なんて大げさなことじゃなくてあの祖父母や親戚も含めた子供の溺愛ぶりは時代的にも不自然過ぎるしやり過ぎ感がありますね。
これまでの花子への持ち上げ方や他の人物に対しての回りの反応もそうなんだけど、なんでこのドラマっていつも全体主義みたいに皆が皆いつも同じ方向向いているんだろう、って感じます。人って同じことが起こっても全員が同じ考え方やものの捉え方とかあり得ないでしょ?ココだって同じドラマ見てるのに違ったり真反対の感想とかあるのにこのドラマの世界っていつも全員が同じ方向を向いてる。子供に対してだって家族そろって同じ育て方の方針なんてあり得ない。世代が違う人たちが集まってるのに。
なんだかいいつも同じ方向向いて節分の恵方巻食べてる人たちを見てるみたい。だからどことなく現実感もなくできごとすべてが年中行事とか祭りとかもっと言えば絵空事みたいな感じが全体に漂っている感じがしています。
今までいろんな朝ドラで子どもが生まれ、一家がそれを囲んで幸せな風景を描いてきました。ほとんどは、こちらもほほえましく感じたり、幸福な感じのおすそ分けに与ったりするんですが…。このドラマではなぜ、わ、恥ずかしいと思ったり、お尻がむずむずする感覚に襲われたりするのでしょうか。(このお尻むずむず感については、前にもご指摘ありましたね。)
それに、ベテランの役者が大根に見えてしまうのはなぜでしょう。伊原剛志ってあんな演技をする人だったか。
また、問題の(笑)父親による「神童」発言ですが、これも、それに値するだけのことを子どもがしていれば、まだわからなくもないです。たとえばすごい記憶力を見せるとか、絵が子どもらしからぬ何かを持ってるとか。(余談ですが、私のいとこは、幼児のときに超優秀な記憶力によって神童呼ばわりされましたが、その後みごとに普通の人になりました 笑)。
そうでないなら、あれは、過去自分の娘にも同じことを言ったお父やんの、ひいきの引き倒しによるジジバカ発言としておくべきでしたね。その方が脚本的にもちょっとしたエピソードの回収になっておもしろいのに。
なんか、やっぱりつまらない。なんでこう、不自然でおもしろくないのか。こうした一同集合の場面は、このドラマがもっとも不得意とするところです。一つところに集まると、とたんに学芸会になってしまう。カフェ、出版社のオフィス、こんどはハナの家。なんで学芸会になるのか、どこが他のドラマと違うのか。これを分析するのもおもしろいかもしれませんが、それより、早くドラマをおもしろくしてください。
花子の雲のお話から想像力を働かせて「雲は雨を降らせて消えちゃった後虹になるんだよ」と言った歩の言葉に英治が「歩は神童だ」と言ったのは明らかに、子供時代の花子を吉平が神童だと騒いだ親ばか発言を意識したものでしょう。見る人はそれがわかるから、なんだ英治も吉平も同じじゃん、と笑って見るんじゃないのかな。なかなかいい演出だと思いますよ。それに「雲が雨を降らせてさらに虹になる」なんて、大人からすればどうということはないけど素敵な発想じゃないですか。雲が雨を降らせて暑さと乾燥に苦しむ人間や動植物を助けるだけでなく、心を元気づける虹まで見せてくれるなんて。私は童話作家かつ翻訳家として子供にずっと夢を与えてきた村岡花子さん関連のエピソードとして実にふさわしいと思います。
が、学芸会、、、
冒頭ぞわっとして見てられなかった。
蓮子さんはちゃんと母親に見える。
花子はやっぱり母親に見えなくて、なんだか違和感があるなあ。
この全体的にコントな作りは何がどうした!と唖然としてしまいました。
のモンゴメリーは、初恋の人との恋愛は叶いませんでした。牧師の夫とはアン作品が受け入れられるのとは正反対に仲も冷めていきました。アンの受けた奨学金は、テストで優秀だから与えられたもので、花のように給費生でわざわざ改宗までしたのとは違います。モンゴメリーもアンも他人の夫を奪い実子を捨てたりなどしていません。
2014-08-12 02:39:30さんの、皆が皆いつも同じ方向をむいてるって、すごく興味深い指摘ですよね。結局、一人一人のキャラが全然出来上がっていないんじゃないでしょうか。だからこそその時々の都合で、キャラがくるくる変わってしまう。これって、本当にプロの仕事なんでしょうかね。
批判はかまいませんが学芸会をみんなして言い続けるのはやめてください。バカにするのもほどがあります。
NHK会長が筑豊出身なので、あんなにも伝助を持ち上げて龍一をダメ男にしているのですか。
本来、一番目を向けなくてはならないのは視聴者なのでは?
制作側の姿勢が、ひどく不快です。
主人公が「茶番、茶番」という茶番劇には朝から涙。
その後の15分まるっとのスピリチュアル茶番劇には、
もうどうしていいのかわからない…。
兄やんは以前に船のおもちゃも作ってくれたし器用なんですね。
鉱石ラジオなんて、確かに男の子なら嬉しいだろうな。
憲兵なんて強面のお仕事ながら子供の心も軽~く掴んじゃうなんて、相変わらず魅力的な笑顔とともに(笑)兄やん素敵です。
そしてすっかり機嫌を直した歩くんは、大事な辞書に落書きしたことを花子に謝り、花子も大事な約束を破ったことを歩に謝る。悪いことをした子供を親が叱って子供が謝るなんて当たり前のことだけど、それまでの歩くんのむずかりシーンが強調された後だけに、とても気持ちよかったです。
でも、それなのに……
花子が寝る間も惜しんで辞書と向かい合い、明日には翻訳が仕上がりそうなのに、結局家族そろっての海水浴は叶わないのかな。
もしそうなら、悲しいですね。
辞書に落書きするのを見て、今までカフェや縁側に落書きしたのは愛情を求めてる心理なのかな?って思えてきた。実にいい心理描写だと思うこの脚本と歩くん。制作側はプロですね。
本当にここにコメントする人は、ドラマに対して造詣の深い人なんですね。
さぞかし人生においても造詣深い、思慮深い人なんでしょう。
感心して読んでいます。
だんだん面白くなってきました。
みんないい味を出していると思います。
兄やん役の人は、父に反抗する血気盛んな青年時代も甥に優しく接する大人の男性の落ち着きも、どちらも見ていて違和感なく演じ分けていていらっしゃいますね。どちらも魅力的です。
この後に及んで、また恋バナを差し込むのですね。中園サン。
なぜ全てこのせまい世界の中で終わらせようとするのだろう。
このドラマにはご近所の脇役になじみの顔がいないですね。避難に来た子供や、その親みたいな人たちがもっと出てきたり交流してもいいのでは。
いつもの人たちしか出て来ない、この世界に他の人がいないみたいなのが不思議。
女学校の時はクラスメイトや先生方がそういうポジションだったのだけど。
それもこのドラマが作りものみたいで共感できない理由のひとつかも。
どなたかが書いてらした、同じ方向を向くごく近しい人しかいない。
違う顔だけど同じ人、みたいに見えることがある。役割が入れ替わってもイケるみたいな。
今日のお弁当なんて、いきなり醍醐さんがあんなことできるのも唐突でよくわからないなぁ。
かよに頼まれたなら、かよからの差し入れとしたほうがしっくりくるのに。
兄やんとの恋バナのために、またいきなり差し込んでくる。
こういうことの積み重ねで、すっかりこのドラマを安心して見ることができなくなっている。
「学芸会」というのは、このドラマを表すキーワードになっている一種の用語みたいなものです。好悪な嗜好といった単純な感情を表す言葉でもなく、もちろん、バカにするなどという低次元の表現でもありませんから、ご安心を。
意味は今までさんざん説明されているので、今までのまともな批評をたて読みしてみてください。
ところで、今回こそはと思って見てみたけれど、セリフの不自然さがいつまでも直らず、入り込めないことが続いています(設定のおかしさは言わずもがな)。
もう「想像の翼」はいいかげんやめたらどうなのか。耳障りでしかたがない。普段の生活でこういうレトリックを使う人間はいない(実際にいたら変な目で見られる)。
「てっ」も、同じ田舎の人間と話すならともかく、ところかまわずの濫用はきわめて不自然。
映像で子どもへの愛情を表現しているところに「おかあちゃまの宝物」などという陳腐に聞こえかねないセリフをかぶせてみたり、子どもが異常事態であることは十分わかるのに、同じ内容を説明する情報量ゼロのナレーションをかぶせてみたり(しかも調子があまりシリアスでないので雰囲気が混乱)。
おかしい。言葉の問題に限らず、この脚本家は、「しつこいから/おかしいから/不自然だから、やめておこう」「やりすぎになるから、ここは抑えておこう」という、ごく普通の感覚というかバランスというものが欠けているのでは、と前から思っていましたが、いつまでたってもそれが改善しないので、いまや確信に変わりました。
平たく言えば「言葉遣いや表現のヘタな人」。これって、脚本家には致命的ではないかと思いますが、今までの彼女のドラマでは、これほどぼろが出るということはなかった。
もしかしたら、朝ドラというのは、本当に能力や技量があるかどうかの試金石になるのかもしれないと思っています。
学芸会と言う言葉をつかうのは、その人の程度の問題じゃないの?
本来、子供の劇とかで学芸会とつかうから、このドラマは子供の劇と
同じという意味なんでしょうね。そうとう蔑んでいるよね。
べつに恋バナがあってもいいんじゃないですか。
醍醐さんや兄やんにも幸せになってほしいと希望している人は大勢いる気がするけど。要は、その描き方でしょう。
まさか脚本家さんも、この二人の恋バナを延々と描くつもりはないと思いますよ。
今は家族の話だから他のご近所さんとか出てこなくても別にいいでしょう。出版社には(名前は忘れたけど)花子の考えと一致しない同僚男性がいたし、女学校には厳しい先生も白鳥さんもいました。最終的にはだいたい理解のある方として描かれていますが、みんながみんな常に花子の味方なわけではありません。
醍醐さんは先日本の出版を報告した後、これからはお婿さん捜しも頑張ろう、みたいなことを言っていたので、花嫁修業に励んでいるだろうし、立派なお弁当を用意しても不思議ではないですよね。
兄やんと醍醐さんならいいカップルだし、私は幸せになってほしいですね。
まともな批評ってどれを指し、まともじゃないものはどれを指すのか?
ひどい差別ですね。学芸会も都合良くまかり通るのですか?
ここに御都合主義を感じます。
ドラマは先週から引き込まれるように見ています。
歩くんの演技は丁寧だし親子の心理描写に泣けます。
私は、結婚するまでの花子は好きじゃなかったけど
今は結構いいと思っています。
家族が周囲がみんなが
歩君をとてもかわいがっていて微笑ましいし
やんちゃだけど、お母さんが大好きというのもよく伝わってくる。
聞き分けのいい、お利口さんの
大人にとって都合の良い子供の設定じゃなくてよかったです。
最近は子供に厳しすぎる許容範囲が狭い大人が増えているので
歩君は腹が立ってしょうがない人が多いのかもしれませんけど
花子の叱り方が物足りないのかもしれませんが
かよのお店での落書きも
花子は叱っていたし、謝らせようとはしていました。
子どもって特にやんちゃな子って、叱ればいいってもんじゃないんですよね。
だから廊下に落書きなんでしょう。
学芸会に文句をつけたものです。
この件での議論はお茶の間でいたしましょう。
歩君自体が可愛く見えない人もいるだろうけど、それより指摘されてるのは、花子一家の教育の甘さについてなんじゃないかな。
私もこんな王子様に育てちゃダメだ〜って思うけど、正直花子も英治も親心で敢えて厳しく…なんて出来ない人達だと今までを見てきてわかっているから、こうなるよね…この夫婦なら…って感じで見てます。自分にも人にも甘ちゃんなんですよ。
でもそれで通る世界をずっと描いてきているドラマだから、ただ微笑ましいと思って見るのは、全然間違ってないと思う。そこがこのドラマを楽しめるか楽しめないかの大きな別れ道なのだと思う。
肯定する人は、否定の感想は何でもかんでもダメなものとしてるみたいに見えるな。
反論はどっちもありだから、別に言い返すのはいいんだけど、いちいち言葉尻捕まえてちくちく言いすぎだと思う。
見方が違えば言葉の受け取り方が随分違うと思います。
揶揄するような言い回しは避けたほうが無難だと思います。
私はもう子育てが終わった世代で
当時は、ちょっと厳しくしすぎたかなあ
なんかゆとりがなかったなあと思うこともしばしば。
やんちゃだけど別にわがままな子って感じはしない。
皆から愛されて育ってると感じる。
辞書に落書きは、仕事をする母親への反抗のためだけど
かよちゃんのお店や廊下の落書きはまた違いますよね。
一緒に廊下に落書きした後は
落書き帳にしかお絵かきしていませんでしたし。
育児、教育に関しては
花の屋根の上歩き (いじめを反省させていない)
ごちそうさんの
ふくの石落下事件(人にけがをさせていることを反省させていない)
そちらのほうが消化不良です。
そうだよね、恋バナだけでこの朝ドラが終わるわけないもんね。
ご近所さんの陰が薄いからダメだとあまちゃんやごちそうさんでも同じような批判がでたけど私にはちょっと理解できない批判なんですが、ご近所さんがどうとかドラマを見て気になる人もいるのですね。
干渉好きなご近所さんみたいでおもしろい見方ですね。
学芸会は朝ドラでよくつかわれるけど、なんか違う言い方のほうがいいかも?下手くそ演劇会とか?やっぱわからない?
醍醐さんのあの表情
実は実家と和解して家に帰り
お弁当はお手伝いさんがつくってくれたのを
みんながほめるので言い出せずにそのままにした。
なんて脳内変換してました。
えっ、醍醐さんどんな表情してたっけ。
お弁当を一口食べて、兄やんはハッと醍醐さんを意識したのにそれがお手伝いさん作だったら、ちょっと面白いかも(笑)。
お手伝いさんをつけずにスッキリさせて、つきあいは宮本家と村岡家に絞り周りのかよや醍醐さん、編集長、甲府、女学校関係者などを絡めてるので、それ以上のつながりはいらないと思います。
今週は親子のつながりがいいです。
このサイトは恋バナ嫌いが多いけど、私は楽しみです。
2014-08-11 19:40:32様
赤毛のアンは
私は最後の
アンの娘リラが一番かと思います。
アンの夢の家もよかったですけど
機会があればシリーズを読んでみてください。
私は赤毛のアンは1回しか読みませんでしたが
その後のシリーズは少女のころから何度も繰り返し読みました。
ごめんなさいね、「学芸会」のことについて、意味は「まともな批評をたて読みしてください」と書いた者ですが、「まともな」とは「揶揄や単に言葉をぶつけただけでその説明も何もないようなコメントは避けて」という意味です。誤解しないでくださいね。
はい、「学芸会」という表現の中身について議論したければ、ここではじゃまなので、お茶の間で。いつでもどうぞ。
私も恋バナ大好きなので、楽しいですね。
翻訳の仕事をしている様子は、今の描写で十分だし
満足して観てます。
ご近所さんのことなんて、言われるまで気付かなかったけど
別にご近所さんなんていらないし
それなら、またあの可愛い猫ちゃんが出てきて欲しいわ~
あの泣き声に癒されるのよね。
原稿の締め切り追われ余裕無く寝る間も惜しみ仕事に集中
外は晴れ楽しいはずの日曜日仕事終わらずママは行けない
嘘ついたママは約束したんだよ辞書に落書き仕事しないで
吉太郎鉱石ラジオ組み立ててJOAK歩と遊ぶ
お母ちゃま雲の上から見つけたの英語読んだりお話書いたり
神様に頼んで来たの行きたいと忙しくても楽しい人へ
可愛いわピンクのワンピにレースのリボン醍醐人形は料理も上手
男なら放っておけないはずなのにいまだに一人信じられない
大切な辞書にお絵描きごめんなさい約束破ってママもごめんね
ラジオから流れる歌はハチャメチャな歩はママのダーリングボーイ
夕方に高熱出してぐったりと様子がおかしい早く医者呼べ
それでは、また明日
恋バナが嫌いなんじゃなく
あまりにも多すぎるから嫌になってきた
だってこのドラマは翻訳家村岡花子のはなしなんですから。
ちょっとだけ翻訳しているだけでOK?
持って生まれた才能と、英語力だけで日本を代表する翻訳家になれた
というのでは、あまりにもお粗末すぎる。
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