




![]() |
5 | ![]() ![]() |
404件 |
![]() |
4 | ![]() ![]() |
98件 |
![]() |
3 | ![]() ![]() |
65件 |
![]() |
2 | ![]() ![]() |
105件 |
![]() |
1 | ![]() ![]() |
563件 |
合計 | 1235件 |
>広い社会では成功として扱われることでしょうからね。
それは今から言っても鬼が笑うだけでしょうW
本当にドラマが成功だったかどうかはある程度時が経った時にこそわかるものです。
本当に広い社会では、ね。
>多分、このドラマは、こことは違って、広い社会では成功として扱われることでしょうからね。
そうですね、私もそう思います。
明日も楽しみです!
>広い社会では成功として扱われることでしょうからね。
そんなに必死で擁護されなくても、視聴率的には成功なんですから、もういいじゃないですか。。。
ただこのドラマ、なんかおかしいんじゃないかというコメントがこんなに多いんだから、そんなに狭い世界だけの話じゃなくて、無視できないレベルだとは思いますけどね。
>多分、このドラマは、こことは違って、広い社会では成功として扱われることでしょうからね。
それは全部が終わってある程度時が経ってからでなければ今は分からないことであると私は思います。
高視聴率であることが成功と言えるなら、まあ、そうかも知れません。けど、たとえば同じ高視聴率といっても、「家政婦のミタ」なんか、ドラマとしてもかなり面白かったですからね。逆に低視聴率であっても、後々まで名作として讃えられる作品もありますし。このドラマが成功かどうかは、もっと時間が経ってから分かることだと、私も思います。同じ高視聴率でも、大河の「江」のように駄作の代表のように言われる作品もありますし。そうならないことを祈ります。
ここは個人の感想をそれぞれが書く場所ですから、その反論として、また擁護でも批判でも、世の中がどう、自分の家族や友達がどう、視聴率がどう、ということは個人の考え方とは全く別のことですからあまり意味を感じない、と言うのかここの趣旨からははずれているなあ、といつも思います。
龍一と吉太郎の場面は見ごたえがありました。
二人とも家族を守るべきだ、ということでは実は一致しているのですよね。龍一はそれをもっと大きな国レベルで考えているのでしょう。
でもそこに戦争、という個人の力の及ばない状況が正反対の言動にしてしまう。おかれている立場も違うから家族を守ろうとする方法論において間逆になってしまう、ということですね。
この二人の男の会話を聞いてしまうとどうしても女性の参政権だのを唱えながら、あの今で言う、女子会のような場所での女性たちの会話が非常に実生活から浮いたおままごとのような次元のものに感じてしまいます。台詞の量は全然ちがうのに非常に大きな差、重みの違い、を感じてしまう。
こんな男たちのやりとりを見たあとで蓮子のせっかく自分を訪ねてくれた友に対して言った幼稚な内容の台詞にはややがっくり来てしまいます。
女性を男性のように描いてほしい、とは言いません。
しかし、せっかくダブルヒロインと言われる女性ふたりが顔を付き合わせた会話、もう少し何か深いものにできないのでしょうか。今後そういう場面が出てくるのでしょうか。これで腹心の友と自他ともに認めた女性同士が仲たがいするような展開になるとしたら何だか女性というものを感情だけで生きている、とでも言いたげなあまりに稚拙な扱いになるように感じます。
あと、龍一がいよいよ連れて行かれる時に花子からの電話が鳴り続けていました。
花子の思いが届かない虚しさを表したものだとは思いますが、家宅捜索までした憲兵隊がかかってきた電話に出させずに鳴りっぱなしにするのはどう考えても捜査上おかし過ぎます。
龍一の手がかりを見つけるために家に来たのでしょう?
小さなことではありますが、ああ言った場面を作るなら、こんな初歩的な疑問を抱かないようにお願いしたいものです。
このドラマについては、5ヶ月間でもうすでに言い尽された感があるとは思いますが、しかし、それでもなお、さまざまな論点を提供してくれるところが、興味深いと思って見ています。しかし、基本的なやり方というのは、変わらないですね。
ある評論家が書いていましたが、「これは初めから視聴率を取りに行ったドラマだ」と。なるほどと思いました。こうまでストーリーにガタツキがあり、こうまで視聴者の動向に軽く乗る動きを見せられれば、そう考えざるを得ない。
特に花子が成人してからは、「主人公をこのような人物として提出したい」「ドラマでこれを伝えたい」という作り手の意志がまったく感じられませんでした。その理由が、とにかく「視聴率を取れ」という至上命題にあったと聞かされると、とても納得できます。そして、それは見事に成功しました。
メディアもこぞって取り上げています。ただし、今までざっと見た限りでは「白蓮・村岡花子とはどんな人物だったのか」「白蓮事件とは」「嘉納伝助のモデルは」「白蓮と白洲正子の関係」「白蓮と美智子様」など、ドラマそのものというのは少ないようです。
どちらかというと素材が珍しがられ(それはもう滅多にない材料ですから)、ドラマそのものの質についてはあまり取りざたされてないように思います。件の評論家も、「もし花子だけのドラマだったら(白蓮の話がなかったら)私は見なかった」と書いていました。
今回のような作法は、今までの朝ドラにはないものでした。「あまちゃん」なども視聴率狙いの部分はあったと思いますが、何よりもまず、クドカンの「これをやりたい」「主人公をこうしたい」という強い意志があり、視聴者がそれに巻き込まれ面白がって、結果として視聴率がついてきた、という体のもので、今回のドラマのように、「まずは視聴率(どうやったらそれが取れるか?)」というやり方とは対極にあります。
言いたいことはまずおき、とにかく視聴者を刺激し扇情して視聴率を取るように仕向けるようなやり方がドラマの作法として定着することは、これからのドラマの方向性にとって決していいものではない、というのが私の考えです。
何のために兄やんが花子に忠告したのか、、花子には伝わらなかった
一休さんのトンチになっちやったのね、、残念だなぁ
肯定派の人も引用してると思いますが。
あなたも引用してるし。でも引用って内容についてなにか言う時にするものなのでは?
>花子には伝わらなかった
そこが花子のいいとこなんだな~
そんな花子だから、大好きで観てる。
今日のドラマで、一点だけ良かったと思う所がありました。
蓮子さんの娘さん、憲兵隊がやってきた場面で、蓮様の後ろで、飴の入った缶をワナワナと震える手で抱え直す仕草。
こういう細かな感情表現、好きなんです(≧∇≦)b
ただ直後、缶を取り落とし、飴がぐちゃぐちゃに割れる、というシーンが入ってしまい、ベタベタになってしまいましたけど^_^;
娘ちゃん、あの手の演技、良かったよ!お名前わからなくてゴメンなさいね。
実際の花子さんの妹さんご夫妻は村岡家に同居していたかお隣にでも住んでいて家事は妹さんがやっていた、という事実でもあるのでしょうか。
今日見ていて、花子は蓮子のことでもう気もそぞろ。
でもももは花子にいろいろ話しかけながらもいつも洗濯物をたたんだり台所で料理をしたり・・先日吉太郎がお饅頭持ってきた時も花子や美里のために全部ももがお茶の用意して運んでいた。
まあいいのかもしれないし、細かいことを言い過ぎるみたいに言われてしまうかもしれませんが、やっぱり見ていてなんだかちょっと違うんじゃないかなあ、と感じてしまいます。
家事をするのがなにか低い、とか言う意味じゃないですよ。
でもなにをしていても日々の生活のことは基本自分でやるのが普通で、それを好意に甘えて全部人任せ、と言うのは・・。もしこの時代で、夫が印刷所経営して、花子が翻訳やラジオの仕事での収入もあるようになれば家事はお手伝いさんがやる、とかならまだわかるのですが、何だかももが花子の家の家政婦さんみたいに描かれるのは見ていてちょっとへんな感じがしますね。
ももだって子育てしているお母さんなんですよね。
姉妹仲良く家事を一緒にやっているような場面でもあればいいのですが、それが一切なくて、なにかあれば(なにかなくても)もも、あとはお願いね、と当然のようになる感じはあまり本当の優しさのようなものが感じられないです。
なんだかずいぶんももも割り切った女性なんだなあ、という感じもしてしまいます。
私も、ももばかりが家事をやるのはなんだかあまり見たくない光景です。もう花子の家に居候の身ではないのに、どうしてずっとお手伝いさんしてるのかな?
少女の頃は家族の光のような存在だったのに、今のももは日の当たらない奥の方でひっそり座ってたり、家事してたりのシーンばかりで正に影の女、という雰囲気。大人になって落ち着いた演技を土屋さんがしているから、というのもあると思うけど…。なんだか切ないです。
花子はかよと暮らしていた時も家事をしているシーンが徹底的に排除されていた。以前、誰かも書いてらしたけど、ここまで来るとやっぱり制作側がわざと花子に家事をさせていないのか、と思っちゃいますね。
甲府編の時一人だけ白い顔、綺麗な着物だったのも、花子だけは特別だということを表すためにわざとだったのでしょうか。その演出の意図がよくわからない。花子の好感度に貢献しているとは思えないやり方です。
家事をやるのはもものプライドかと思いました。
皆は収入を得る仕事で一人おさんどん的な感じに
映るのかと思いますが、北海道料理を皆に褒められた時から
ももの出来る事はこれだと
プライドを持ってやっているように思います。
賑やかにふた家族で食卓を囲んでいるのは微笑ましいですし
実際はお手伝いさんがいたようですけどね。
ももは美里ちゃんを産んだ実母なんですよね。
もうすっかり割り切ったようにあんなふうに実の子に対してただの叔母というよりまるであの家のお手伝いさんのような感じで接して、何かあれば、花子と英治に「美里の事、おねがいしますね。」って言われて何も感じないのかな。美里と二人になった時にもなにも感じないのだろうか。
あんな形で養女と実母をいつもいつも一緒にいさせる、ってある意味ものすごく残酷なことだと思う。美里はももにとって初めて出産した子なのだし。そのことは視聴者は見て知っているのだし。
昨日、本当の親子のように幸せそうに3人でダンスをする光景を見せられた翌日、実母のもものこの扱いはあまりにかわいそうだと感じてしまう。
なんだか花子にとってはきれいごとで済ませていてこちらもつい考えないで見てしまうのだけれど、よく考えてみるとこれひとつとっても人の気持ちというものの機微をまるで解さないものすごく無神経な脚本だと思う。
いくら面白い場面があっても、こういうところが私はどうしてもこのドラマが好きになれない。
>実際はお手伝いさんがいたようですけどね。
なら、なぜお手伝いさんを出さないのでしょう?
いい加減、ももだって2番目の子を中心に自分の家庭の幸せを追求させてあげれば?
史実の使い方がどうも理解できないです。
家事のプライド、と言っても実の子が毎日目の前にいるような状況であれは不自然すぎるし、酷過ぎると思います。
後世に残る駄作でしょう。
視聴率だけが取り柄の駄作に間違いありません。
なぜならこころに全く響かないドラマだから。
マスコミも視聴率だけを捉えて持ち上げる。
日本のマスコミの低レベルを暴露している。
2014-09-03 02:37:47さんのご意見はかなり辛口で失礼ながらこのドラマが好きな方にはとても納得が行くような根拠が述べられていないとは思いますが、真理をついていらっしゃるところがある、と私は感じます。また根拠についてはこういう感想サイトの批判意見が具体的に補足しているところはあるように思います。
確かに公共放送までが視聴率だの商業的なものに大きな価値観を置くようになりマスコミがそれをますます増幅させる。こういう状況には私も少なからず危機感を感じています。
花子とアンは、おっしゃっていた方がおられますが、好き嫌いという個人的嗜好とは切り離して技術面を考えて見た時に、人の心の奥深くに訴えたり、人々に何らかの思考をさせてくれるような表現ができている良質の脚本によるドラマとは明らかに違う、と感じています。
好きな方がいらっしゃいますし、脚本以外の要素でそれを補っているところはありますので(これも皆様の感想からよく判ることと思います)こういうドラマがあっていいと思います。しかし朝ドラといえど、こういう作り方、また制作姿勢のものが主流になっていくことには(まずならないとは願いますが)私はテレビドラマ文化、と言う面から見て芳しいことではないと感じています。
ダンスのシーンは、かすみさんとももから奪い取った結果みたいに見えてしまった。
花ではなく花子と現代人にも広く呼ばれるようになり、すべて主人公の望み通りになっているのだと思う。
ラジオでは愛国主義者でもしたたかに敵国の翻訳を続けた花子と、共産主義者と結婚して身分を自ら捨てながら、民間人の皇室入りに反対した蓮子。
都合の良い内容だけ取り繕った朝ドラ後、BSでは民放もどきの動物の赤ちゃん特集まで始まって。受信料で存続する局が視聴率、受け狙いなのが疑問。
産んだ母親と育ての母親が一緒にいるって美川憲一の家族みたいだね。
当たり前の家族像が頭に浮かぶ人達では受け入れられないんじゃないの。
花子!冷静になりなはれや〜!
蓮さまが思想を変えたら、今までの人生全否定やんか!
ヒキョウ呼ばわりされてカーツと来るのは分かるけどもな。
今が、腹心の友として心細い彼女を支えるべきやろ?
純平、、どこから見ても、、一家の主に見えてまうわぁ〜。
落ち着いとるのか?なんやお父さんのが若く見える?
私には『ごちそうさん』と同レベルに思えるのですが、あちらは評価が高いので、ドラマの評価とはよくわからないものです。
今日の花子と蓮子の会話は見応えがありました。
子供に夢を与えたいと引き受けたラジオの新聞が、戦争の記事ばかりなことに疑問を持ちながらも、そんな時代だからこそ自分の”ごきげんよう”で子供たちの心を明るくさせたい、と納得する花子。時代に逆らっては今の暮らしも家族もすべて失ってしまう、という当時ならごく普通の考え方ですね。
対して蓮子は龍一の行動は正しい、彼は子供の将来を考えているのだ、と夫の考えに同調しています。花子のラジオも綺麗ごとを言っても子供たちを兵隊にするための道具になっているのだ、と。そして花子を偽善者、卑怯者とまで非難する。激情に身を任せる直情型の蓮子らしい言葉ですね。花子が蓮子の身を案じても「心配しないで。私は華族の身分もすべて捨てて駆け落ちした宮本蓮子よ」と啖呵を切ったシーンはカッコよかったです。
結果、またしても絶縁という形になりそうなのは悲しいけれど、二人がはっきりと自分の考えを言葉にしたのはよかったです。今の時代に生きる者ならどちらも理解できるけれど、戦争というのは恐ろしいですね。
できれば蓮子には、軍人を志願する息子との葛藤もしっかり描いてほしいと思います。
全く違いますよ。
ごちそうさんには一貫したテーマがあり、一週間の単位で
テーマに沿ってプロットが組まれておりラストまで力強かった。
役者さんのバランスの良さ、ほどよいコメディ感
戦争や災害を社会との繋がりを大切に描かれていた。
悠太郎の職業が特に関係してましたね。
ヒロインはただの主婦でしたがw
元気の貰えるヒロインでした。
だから花アンがどうこうと言うつもりはありません。
その時期で朝ドラは良いところも、悪いところもあると思うからです。
朝ドラはその時々で違う、それが面白いと感じています。
やっぱり私は最後まで、花子のことが好きになれそうもない…っていうか先週の養女の件からもう、はっきり嫌いだ。
蓮子に問い質されたラジオの件の花子の答、なんとも曖昧で自己保身に満ちていて花子らしいな、と苦笑いしてしまった。国策に大人しく乗っていくのが子どものためか、逆らうべきか、息子を持っている母親と娘だけの母親では見解も分かれるよな、とは思う。
でも、花子はただの一家庭の母というだけではない。本職ではなくとも、長年ラジオを通して日本中の子ども達に影響を与えてきた人なのだ。蓮子が言うように、あの放送の内容は、子ども達を戦争に導いていると言われても仕方ないと思う。花子もだからこそ、続けるかどうか迷ったのでしょ?自分のごきげんようが子どもを戦争へ向かわせる…そういうことに薄々気づきながらも、長い物には巻かれろの姿勢を取る花子。こういう所が嫌なんです。ラジオ辞めてもいいじゃないの、辞めたからと言って宮本みたいに逆賊扱いされて捕まる訳でもなし。
「日本は想像が及びもつかない方へ向かっている」
でも、自分が放送している物がどんな影響を及ぼすかくらいは想像して欲しい。
「私一人が流れに逆らっても何も変わらない」
マスコミに携わる人間に一番言って欲しくない言葉。そうやって責任逃れをして深く考えずに垂れ流す言葉に、真剣に耳を傾けて感化されている子どもがたくさんいるのに、純平のようにね。
花子が何の力もないただの一主婦なら、ここまで思わない。むしろ、気持ちはわかる、と同情したかも。花子はとにかく一貫して自分のやっている仕事に対して自覚がなさ過ぎる。
「未来はあなた達の判断にかかっている」
「はなは、私の夢を引き継ぐ人。二つの国の架け橋になるのはあなた」
ブッラクバーン校長が託した思いも、花子の自己保身の前では何の意味もないのだな。
蓮子が今日言った「偽善者、卑怯者」という言葉は、私がずっと花子に感じていたことだ。ドラマ内で初めてそれを指摘する人間がいて、意外だったがちょっとホッとした。でも、この指摘も花子の中でどう処理されるのかはわからないが。無意識の自己保身能力で、きれいにスルーされそうな気もする。
今日の話は、花子成人以来、実に初めてまともに見えた。
花子と蓮子の人生の依って立つところの違いだから、今までの子どものような仲たがいとはまったく違う、深い断絶。こういう人生の相克あってこそ、初めて「ドラマ」だと言える。
「アナと雪の女王」にもなぞらえられている(私は違うと思うけれども 笑)二人の最大の危機だから、この決着も腕によりをかけて描いてほしいけれど、どうなるでしょうね。期待がかなえられるかどうかは、フィフティフィフティといったところでしょうか。
この部分は、史実では国策・体制協力者であった村岡花子を、まさかそのようには描けない。かといって、まったく逆の反戦論者とすることもできない。ということで、例の不倫騒動と同じように、かなり四苦八苦すると思う。
あのとき、結局、脚本家は、花子に泥をかぶせないようにきれいごとに仕立てて逃げた。そして、そのためにドラマがぐだぐだになってしまった。今回ばかりは、そういうのはやめてほしいと思いますが。
蓮子一家の反戦問題
昨日までは必要ないと思っていたけど
今日の放送を見て考えが変わりました。
二人のやり取り、今日が一番よかったです。
残り少ないですけど、戦時中の翻訳家としての葛藤と苦難や
女学校の先生たちへの思い
ちょっと期待できそうです。
今後もあるのでは
私としては、花子の言い分やエクスキューズにはまったく納得できないけれども、百歩譲って、彼女が自分なりの主張を持っているなら、ドラマ上、それはそれでいいと思う。今までは、ただ周りに流されるだけの、人形のような主体性のない人間だったから。
問題は、これからどうするかだ。「偽善者」と、自分を大切な人から否定されたショックをどう克服し、その先を探っていくか。
カーネでも同じことがあったのを思い出す。家族同然だった同級生の親から「あんたのその強さは毒や」、もううちに近づくな、と言われショックを受ける。その表現も存分に描かれていた。
そして彼女がどうしたかというと、結局自分はこうあるしかないのだと、誰に言われることもなく、なぐさめられることもなく、自分をまっとうすることを自覚する。賛否はともかく、それはそれで納得できる道の見出し方で、潔かった。
花子はどうなのか。また、傷心を誰かになぐさめられ、あなたはそれでいいのだと言われ、なんとなく自己肯定していく。戦争に自分がどう関わるかという問題も、なんとなくうやむやにされる……また、そうなりはしないか。今まで幾度となく繰り返されてきた、主人公の情けなさ、ふがいなさ。もうこれ以上見たくない。
ごちそうさんと同レベルかぁ・・・
確かに、そう言われてみるとそう見える部分もあった気もする
でも、あちらは深みがあったが、花アンにはないな
裏はあるかもしれんがね
素材はいいのに料理の仕方がテキトーかな
見ためは豪華なのに薄味で出汁が入ってなくて香料や化学調味料や添加物でところどころ苦い味がするんだけど
その苦味や違和感に気がつく人と全く気がつかない人がいるという印象だな
ごちそうさんは食べる人(視聴者)のことを考えて作ってくれてるのが好感もてたよ
私は今のところごちそうさんのほうが上だと思いますね。
特に戦争の話は
日本の人たちに何の影響力もない
ただに主婦の話ですが
戦争前半半ば終盤戦後
戦争に対する一般人の気持ちの移り変わり
悲しみ葛藤とても丁寧に演出されていたと思います。
花子は作家翻訳家で、ラジオの番組もっている、
国民に影響を与えることのできる立場であり
カナダ人との深い交流もある
でも今のところあまりその辺が描き切れていない。
残り少ないですが、今後どのようになるか
期待はしていますけど・・・
今日はまだドラマ見ていませんが、先にこちらをのぞかせていただきました。不倫のことと言い、戦時中の考え方と言い史実の村岡花子さんは今の時代に朝ドラとしてドラマ化するのにその作品はともかく生き方が適した人だったか、と言うことには改めて疑問を感じてしまいますね。〈花子さんの生き方を否定しているのではなく、あくまでも朝ドラに適しているか、という観点から言ってます。)相当脚色しない限り受け入れてもらえるのには非常に難しい素材であったような・・・
その辺りを見極めてのドラマつくりだったのでしょうか。
赤毛のアンが世の中で人気があり、それを題材にとりこめば視聴率がとれる、と言うことが第一目的だったように感じられてなりません。翻訳者である村岡さんを何とか結びつけて描けばいいか、適当にごまかして朝ドラっぽい内容にしておけば視聴者は喜ぶだろうーーもしそのくらいの気持ちでこれを作ったとしたら、やはり史実と言うもの、ドラマと言うものに対してあまりに冒涜と感じられてしまい良識が疑われてしまいますし、そのあたりは見抜いてしまう視聴者もいるように思いますが。
ドラマの感想はまた見てから書かせていただきたいと思います。
カーネーションやごちそうさんのような力のこもった秀作と、花子とアンを一緒のレベルに論じるのは無理があるような気がするな…。まあ、好き好きはあるとは思うのですが。
花アン好きでごち嫌い。
ごち好きで花アン嫌い。
花アンもごちも好き。
花アンもごちも嫌い。
まー、いろいろな方がいるんだねーとここではよく思います。
わたしもごちそうさんと花アンは全くレベルが違うなと思う1人。
役者さんの演技云々にそこまで大きな違いがあるとは思わないけど、とにかく脚本力が段違い。
好みとは違う話で、構成とか、計画性、時代考証なんかはやっぱり森下さんが圧倒的に優れているように思う。
映像の美しさは花アンのがあったかなと思ってますし、衣装の遊びは両者同じだなと思う。
ほんと、脚本のレベル。
その一点において、花アンはもったいなくてたまらない。
好き嫌い、ということでならごちそうさんも花子とアンも両方好き、とか両方嫌い、は十分ありえることだと思います。
でもこの2つを脚本の視点から比べた場合には比較にはならないでしょう。完全創作と実在モデルがいる話の違いがあったとしても。
実在モデルがいる話は完全創作より実は難しいところがあるとは思います。
しかしやはり脚本の出来、という点で見た時にごちそうさんと花子とアンには大きな差があると思います。
ただカーネーションのモデルと村岡花子さんではいろいろな意味で村岡さんの方が作るのが難しい、ということはあったかもしれません。
同じようなことを全く別の人たちが感じているんですね。
2014-09-03 12:19:48 名前無しです。〈大〉訂正です。
申し訳ありません。上6行目、ごちそうさんと花子とアン、ではなくて、カーネーションと花子とアン、の間違いです。
「ごちそうさん」大好きです。思わずシナリオbook買ったほど。
でも、ネットのレビューをちらっと覗いたところ、本当にひどかったので、放映中は一度も見ていません。
花アンは、なんか全体として雑だな~、どうしてヒロインをあまり共感できない性格にするのかな~、でも視聴率いいし、みなさんどう考えているだろう、と「感想」を探してここにたどり着きました。
花アンに関しては、ファンでもアンチでもないつもりです。
一番のアンチは「見ない」ということだと思うので・笑
でも、脚本にはどうも「?」を感じるところが多いです。ごちと比較して、いったいどこが違うのか、どうして面白くないと私は思うのか、それを知りたいと思っています。
そして、このレビューサイトは、その思いを満足させてくれます。
ファンの方の意見もとても勉強になります。
「善きものを見たい」というようなお言葉がありましたが、そう思ってみている人もいるのだ、というのがとても新鮮でした。
世知辛い世の中なのでドラマくらいは人を攻撃する場面などがない人のよく見える部分だけを拾ったものが見たい。というご意見には私もとてもうなづけるものがありました。
村岡花子や白蓮をモデルにして本当にそういうものにするのは至難の技なのではないかと思いますが、それができるような優秀な作家さんはいると思います。そういうドラマを公共放送の朝ドラで見てみたかったものです。
以前 澪つくしと言う朝ドラで。新人の沢口靖子が、加賀まりこに 演技がなってない。といじめられたとか?子供の頃に観た朝ドラ。ストーリーとか脚本とかの本意を知らなかった私でさえ、女優さん同士の揉め事(?)を耳にしました。
演技とはなんぞや?な私だったので、いじめられてる。と言うだけで「負けるな靖子さん!」的な心境になったのを覚えて居ます。
朝ドラと言うのは、他のドラマと違って。視聴率はもとより、厳しい目が向けられていると思います。
「女優を辞めようと思ってた時に」「出会ってしまった」(脚本家の先生のたっての願い?)のスタンスで引き受けて欲しくなかったです。
朝ドラに主演と言うのは、役者にとって物凄い思い入れがあるものだと思ってました。
大変なプレッシャーから、自信がない。と言うのは、謙虚な思いも伺えますが。「朝の顔じゃない」と思うなら、やっぱり引き受けて欲しくなかったです。
しかし、引き受けた以上。真摯に役作りに徹して欲しかったです。
脚本家の先生の仰る通り 原案の作家さんの仰る通り。キュートな女優さんなんだと思います。が…。
例えば。
普段テストの点数が80点の子が頑張って90点取れたとします。その子は10点分頑張ったと言うこですよね。
かたや、普段のテストの点数が30点の子が頑張って70点取れたとします。この子は40点分頑張ったのですが。
結果は10点分頑張った子の方が 成績は良い。と言う事になるんです。
将来への長い目でみたら、結果は悪くても40点分頑張った事は決して損にはならないし、糧になるんだと思います。
頑張った40点分。知って居る人には解って貰える。しかし、知らない人には70点の子。としか見て貰えないんですよね。
私は、頑張る子が好きですし 応援したいです。
主演の女優さんには、何とか卒業(クランクアップ)出来たね。進学(次の出演)出来たら良いね。その為には、試験(オーディション)受けなきゃね。内申書(花子とアンの評価)は、決まってるのよ。
と言う感じかしら?
レベルの低い子と遊んでる子は、その状況に甘んじてサボり気味。馬鹿は伝染る。と言われました。
高みをみて下さい。
いや~、世の中にはクラスで一番のヤツが、クラスで最も成績の悪いヤツと仲良くしているということが、田舎の学校ではありますよ。
私立のドングリの背比べの中での一番とビリの関係とはちょっと違います。お互いの足を引っ張り合うなんて意識がないからなのかな。
吉高ちゃんは映画のGANTZでニノの相手役として、むかつく暇がない程の存在感がある演技力を魅せつけられたので、このドラマでの演技にはあれ?っとなってます。
村岡花子も人生色々とあったようですが、そうでなければ赤毛のアンでのギルとの恋愛やエミリーシリーズのような恋愛ものの翻訳に深みが出なかったのだろうし。
子供の頃からの大好きな赤毛のアンとエミリーシリーズの翻訳者ということで、あの言い回しがものすごく好きなので、やはり尊敬しています。
なのでこのドラマがなんか突っ込みどころが多いし、イラっとくるのはなんでだろう。
これから村岡花子が『Anne of Green Gables 』とどのように出会って、それがどんな風に描かれるのか楽しみな半面、がっくりになることも覚悟しておかなきゃと思っています。
エミリーを知っている人に出会えてうれしい。
アンとは全く性格の違う主人公
村岡花子はアンより
エミリーのほうに似ているのでは?
とアンのゆりかごを読んで思っていました。
ラジオやめるねって言ったけど
ごきげんようが子供を元気づけるよって言ってもらえて
自分を否定した人にすぐ「私のごきげんようが子供を元気づけているの!」
ってのっかってくる花子
ほんとこのシーンで、なんでこういうキャラにしたのかなって思いました。
わざと?なら悪意を感じる
わざとじゃないならキャラの作り方の感覚おかしいよ。
これ以上深入りすれば巻き込まれる兄の忠告従うべきだ
ラジオでは今日も戦果を報告す日本軍の漢口占領
悪いのは父と息子は非難する家族でさえも面会叶わず
兵隊が誉れの凱旋できるよう家の手伝いしっかり勉強
語り手を続けることへ疑問ありニュースの原稿戦争ばかり
子供達ごきげんようを待っている暗い心を明るく照らす
何枚も子供達からはがきあり一枚一枚丁寧に読む
差し入れに行ってはみたが会うことも許して貰えず状況分らず
出来るなら届けて欲しい龍一に着替えと詩集家族の手紙
兄やんに頼んでみるわ差し入れと今の状況少し教えてと
誰よりも子供の将来憂えてる間違ったことしてはいないわ
頑張って強い兵隊なるようにラジオニュースは聞こえてくるわ
戦争をしたい人たち扇動しその人たちに読まされている
戦場に送らんがため純平を生んで育ててきたのではない
どうするの蓮様までが捕まったら口にするのは慎むべきよ
純粋な子供はすぐに感化され立派な行為と命を捧げる
少しでも明るくしたい偽善なり優しい言葉で地獄に導く
世の中の大きな流れ止められないたった一人で抵抗しても
迫り来る想像つかぬ大波が呑まれてしまうか乗り越えられるか
逆らえば全て失う何もかも大事な家族暮らしも守れず
蓮様のそのまっすぐな生き方が危なかしくて心配なのよ
何もかも捨てて駆け落ちした蓮子心配ご無用かかわらないで
世の中がどこに向かって行こうとも時代の波に平伏しない
卑怯な生き方せずに言いたいこと書きたいこと言うあなたと違って
これまでの友情感謝し離別する さようなら お元気で
生きる道違ってしまった二人には交わることはない道なのか
それでは、また明日
村岡花子さんのモンゴメリ訳は制覇した者です。
確かにエミリーに実像の村岡さんは近い気がする。
モンゴメリは『赤毛のアン』が売れてしまったために続編を求められ大変だったと聞いた。
ファンタジーを本当は書きたかったという話だから、モンゴメリは『パットお嬢さん』がいちばん好きだったんだろうな。
吉高さんの演技、わたしの『GANTS』好きでした。やっぱり映画向きな女優さんなのかな。ガリレオも映画の方が良かったし(個人的意見です)
でも今日の吉高さんの演技(演技ね)は好き。
蓮子と相対して袂をわかつ(正確には蓮子に突き放されるだけど)場面で、心情がありありと伝わった。
確かに偽善者なんだろうけど(本当に)、親友に言われたらショックですね。蓮子相変わらず強いというか、花子にキツいというか。でも仲が良い友だちほど価値観が違うとショックなのはわかる。それを口に出してしまうのが蓮子。そしていまはわたしを誰だと思って、と啖呵を切るのも一見格好良く見えたけど、そう言って自分を奮いたたせている気がした。そうでもしないと立っていられないんだろとも。
良い感じじゃないですか。
アンチだって好きなとこは好きだし、偽善者と言われて花子が自分と向き合うことに期待するよ(期待を裏切らないでー)
>好みとは違う話で、構成とか、計画性、時代考証なんかはやっぱり森下さんが圧倒的に優れているように思う。
花アンとごち。
比べてみると、引用の方含め多くの方の指摘しているとおり脚本や演出面などに差があるのは異論ないと思いますが、時代考証についてはどっこいどっこいですよ。
ごちは創作物で、花アンが史実をほとんど無視しているのは事実ですが、これとドラマの時代背景や当時の生活習慣、歴史事実との関わりなど時代考証はまた別の視点ですので。
私はここのごちスレには参加していないので、ここでの議論の流れは知りませんが、ごちの放映中から考証の専門家が様々な矛盾点も沢山挙げられていましたし他所でも多くの議論があったのはご存じの方も多いことと思います。
そして、ネットでの炎上目的や視聴率を意識したドラマ作りの問題についてもこの2作はどちらもマーケティングをかなり重視していると思います。
花アンの問題は炎上目的の視聴率狙いの打算的な作りというよりはむしろ脚本、演出、演技などの各要素が上手く機能していない点だと考えられますし必ずしも狙いどおりには成功していないと見えます。
ただ、脚本を始め制作の総合的なクオリティは今のところごちが優れているのは間違いないと見ています。
自分は最近の「花子とアン」は村岡さんの存在感のなさ、が目立ってるように思えて仕方ないです。
しかし、こないだ、花子さんが蓮子さんに釈明してた時の、村岡さんの言葉選びは花子の個人秘書?って思うほどの正確さでした。
何だか、花子さんって幼少時代はおとう、学校卒業して甲府に帰ってきてまた東京に行くまでは朝市、東京に行ってからは村岡さん、と面倒見てくれるタイプの男性が常に傍にいるなぁ。
悪くいえば手下、良く言えば護衛、って感じかな(スイマセン!)
常にこの人たちに守られてるからピンチらしいピンチがないような。だから普通のヒロインがピンチになってどうする明日の放送を待て!?みたいなドキドキ感がないのかも。
存在感のなさが目立つって、なんか面白い言い回しだなあ。
朝市も英治も、花子姫に仕える騎士なんだよね。
皆さんのご意見、いろいろ楽しく、時には考えながら読ませて頂いています。
結局のところ私の結論としては・・というか前々から私は熱心ファンでもないし、でもアンチではないんで・・もう理屈抜きですよってところですか。
どんなに脚本が優れている、といわれていても、自分にはダメと言われても好きなドラマってあるんですよね。カーネとかまさに。ごめん・・・!
クドカン、好物ですが、朝ドラ以前にですけど・・良さを伝えたくても伝えられないって感じで、まわりの皆には良いよってなーんか言えなかった。
でも、朝ドラであまちゃんが名をはせることになり・・しかし、逆な意味でこれまた話しがかみ合わなくなった・・私、あまちゃんは認めてないんで。某レンタル店にいっばいあって借り手がひっきりなしにあるのを見ても、著明な誰かがなんといおうと、これは自分のことですからお構いなく!・・結局は自分の納得でしかないってことだなぁって。
このドラマ、私は確かにアラがいっぱいと思うんです。
まったく脚本が優れているとはおもわないんです、正直なところ。
朝ドラとしてそれなり、に作られたって思っています。
でもなんですよ、これはなんとなく心惹かれるっていうか、毎日楽しんでいるんです。
キャストが自分の好みな方々っていうのも要因としてあります。
前作のことがいろいろ出ているので書いてしまいますが、ヒロインもその他の出演者もどうも私には馴染めなかった、ファンの方ごめんなさい、すこし大袈裟な演出が私にはダメだったんです。なので途中下車でした。フクちゃんのクダりあたりだったっけ・忘れた!
お話として筋はそれなりにちゃんとしていたとは思います。でも私にはですけど、心つかまれる魅力に欠けていたんです。
分析すればいろいろです。ドラマ、ドラマで。お話の筋が通っているとか、そんな良し悪し、あるのかもって思います。
でも結局は自分の好みなのかどうか、サイトを楽しむとか、いろいろな意見を聞いてドラマについて考えるとか、そういうこととは別のもので、ドラマを楽しむっていうことではそれが一番だと思うし、ドラマが好きってそういうのが大事なんじゃないかなーって思ったりします。
でも、でも、ですよ、言っておきますが、分析するのが悪いとかそんな風に思っているわけではないですからねっ念押しみたいになりますけど。それも面白くて、サイトにいるんで。
2014-09-03 18:41:33 名前無し さんのコメ、すごく共感しました。
今日の17:18:57で時代考証や視聴率狙いについて書いたものですが
私もやっぱりテレビドラマは好きか嫌いか、泣いたり笑ったり、おもしろい、感動する、言いたいこと代弁してくれる、なりたい自分を叶えてくれるなど「情」で見るものだと思ってるんです。
どのドラマも作品によりいろんなタイプがあるし視聴者の好み、視聴スタイルも様々。
だからいろんな意見感想あるのも解るし。
今は感想サイトやツイッターの実況もみんなで騒いだり盛り上がったりする楽しみ方もある。
その一方で、ここみたいにプロ顔負けのドラマの批評をしてドラマの質を客観的に論ずる志の高い方もいて、それはそれで興味深いですし、さらにドラマの評価を視聴率だけではなくネットやSNSの話題度や録画予約率などからも統計されようとの流れがあるので、一般視聴者とはいえども「本質を見抜く」スキルや議論する場がますます重要になってくるのかもしれませんね。
しかし…所詮シロウト、されどシロウト。
ドラマを語る時にいつも忘れずにいたいのは、ドラマを見て心が振るえた瞬間の感動。このときめきを愛情込めて伝えられるようになりたいです。
以上、長長と失礼しました。
スポンサーリンク