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合計 | 18件 |
読み | おわりにみたまち | |
放送局 | テレビ朝日 | |
クール | 2024年7月期 | |
期間 | 2024-09-21 ~ 2024-09-21 | |
時間帯 | 土曜日 21:00 |
山田太一原作「終りに見た街」を20年ぶりにドラマ化
脚本宮藤官九郎 主演大泉洋
小説家の主人公が家族ともども昭和19年6月にタイムスリップする。
待ちきれずフライングです。
ラストのカットに込められた原作者のメッセージは山田太一らしいとしか言いようがない。昭和57年でしたかね47歳の主人公がラストカットで呟くあの台詞、どこまで再現するのでしょう楽しみにしています。宮藤官九郎、山本周五郎、山田太一と選ぶ本色濃いですね(笑)
怖っ!
細川さん版は見ていませんが中井貴一さん版は見ています当時もトラウマ級でしたが揺らいでいる世界情勢の今だからこそ尚更真に迫るものがありました。時代に洗脳され戦い方も正義心も方向性を見失う若者達これは今もあまねく人に思い当たることがあるんじゃないでしょうか。また人はマスコミや権力者やSNSの大声には敏感に反応するし流動的で情報の取捨選択をしているつもりでみんなの行く方へ流れてしまう時にそれは生死につながるというのも今昔変わらぬ姿だと思いました。核武装したレッドチームに囲まれた日本ある日突然その日がくるのかも知れない。彼らが行ったのは未来なのか過去なのか最後に彼の見たものはいつの私達なのか?今が本当に現実か戦争を繰り返す人間は終わりのない街を彷徨っているのかも知れません。SFでありながら非常に現実的な本作はある意味ミスト超えのトラウマですね。実写化の度にその時代の反映があり今回のクドカンも上手い脚本だったと思います。洋ちゃん器用な役者だなぁ中井貴一さんもだけど幅広い表裏が素晴らしい。
遅くなりましたが観ました。山田太一は昭和一桁生まれなので、オリジナル第一弾は主人公のモデルがご自身ですよね。
10歳が敗戦で、それから40年近く時が流れ大人になった主人公とその家族が昭和19年にタイムスリップするって話で、とりあえず憲兵が怖かったのは作家ご自身の幼児体験かな?と思ったのと、兎に角、このドラマはラストがメッセージと言おうか怖い。
来年は敗戦80年で昭和100年。もう、戦争に行っていた人や敗戦の時に、大人だった人は100歳超えてくるので、戦争ドラマも時代劇も無くなって来ますね、人は忘却する生き物か、学ばないのか知らないけれど、反面教師と言う言い方は日本語ではなく毛沢東の言葉で比較的新しい造語であるけれどちょっと、時勢ぽくって使ってみると、反面教師って言ってるうちは、大人のふりした子供のままなのだろう。反面教師ではなく、そこにはじまりがあり終わりは今の私たちに繋がる始まりなのだということを分かりたいと思った。でも、明日の朝から昭和19年だったら、、やっぱ嫌だ、ドラマで良かった。
今の日本に生きれて良かったが明日のことは誰にも分からない、たまたま今ここに生きていることを大切にしたいと思わずにいられなかった。
けれど、少し疑問に思ったこと、田宮太一何歳?母親は昭和20年当時18歳80年後88歳じゃなくて98歳では?戦争行ってた田宮たかよしさんがお父さんで田宮太一昭和何年生まれ?昭和30年生まれでも70前なんじゃ、、まあ、突き詰めて考えないドラマだし、そこあまり根幹に関係ないから(笑)
ふっと、考えた小川一郎は阪神・淡路大震災を受け入れたみたいに終わったけど、田宮太一は、どうするのかな?って。
真実や常識や正義が今の時代と違う世界で田宮太一はもがくのか?宮藤さん凄く濃いですねメッセージと思いました。
エンディングは怖い風景だった。
日本人学校の事件で、中国政府に何も出来ない日本政府の対応を見聞きすると、これがいつ起きても不思議ではないと憂う。
想像力と行動力の欠如は致命的な不幸を招きかねない。
善良な人間に降りかかる不条理にゾワゾワしました。終わりに見た街は繰り返す戦争の成れの果てその世界線はずっと地続きで果てしない…核保有したレッドチームに睨まれた私達SFではすまないかも…勝地くんはタイムトラベラーでその地続きの街を彷徨ってる?ということでいいのかな?スマホのラストシーンでそう解釈。さすがクドカン冒頭のうぇい!前髪クネオな彼がここで効いてくるんだうぇい!は平和な装いの中実は何が起きているか知っていて1人シェルター(安全地帯に)最初は彼らのように人を助けようとしたかも知れないしかし戦争は無くならない諦めやがて日和見に。平和な毎日にぼやく人間にも警鐘として無関心の怖さの象徴。ヘラヘラしてるから余計怖いしどこか無責任な匿名ネット民のようでもある。様々な解釈があっていい考えてくださいという作りラストシーンは重くどんよりですが戦時下に現代を反映した描写もありクドカン巧みだったと思います。わんちゃんのシーンにはレオ〜!泣やめて!と心で絶叫しました。ほんとに戦争は嫌ですね。大泉洋さんも良かったし総じて楽しめました。
山田太一さんのドラマの終わり方をWikiで読んで知りました。クドカンドラマはもしかして最後ハッピーエンドかもしれないと思って見たら、とても怖い終わり方でした。それに今の子ども達がタイムスリップして軍国主義に染まってしまうことのおそろしさも感じました。
かつてのロシア帝国を夢見るプーチン。
パレスチナ(イスラム教)を敵視するイスラエル(ユダヤ教)。
既成事実を積み上げて南シナ海を支配する習近平。
現在を第三次世界大戦前夜だと危惧する人達がいる。
たった一発の銃弾が引き起こした第一次世界大戦のように、何がきっかけになるか分からないからだ。
資源や食料の奪い合い。
貧困や災害による難民。
贅沢の味を知ってしまった人達が守ろうとする生活レベル。
紛争の種は尽きない。
尽きないが、不満のはけ口を、怒りの矛先をぶつけてしまったら取り返しのつかない事になるのに、なぜ人は学習できないんだろう。
星新一の世界観にも似たエンディングが恐怖心をかき立てる。
「猿の惑星」のエンディングシーン(崩壊した自由の女神像)を思い出してしまった。
なんだコレ、こっちが言いたいセリフだわ
昨夜遅くに観て、おばあちゃんの年齢に疑問を持っていたが、2度目観て分かった、おばあちゃんは終戦当時18歳じゃなく8歳で、初めの「終わりに見た街」の作家山田太一の目線がここに来るって訳か、18歳って聞き違えていたみたい(笑)そして戦争に行っていたという、おじいちゃんとは10歳以上の年の差婚ってことか。田宮太一49歳らしいということは、昭和50年生まれか、おばあちゃん38歳の時に、太一を産んだということか納得(笑)別にどうでもいいと言いながら年齢のことが気になっていたので、納得出来て良かった。
子供は、柔軟で、そして流されやすい、子供の柔らかい心を利用してはならない、大人は柔らかい心を守りながら、私も僕もと同調することで安心して少数意見を迫害しない自分の頭で考え言葉を発し行動する流されない自我を育てなければならないってことですかね。
主人公が終わりに見た街は何年の何処なのか?主人公は帰ったのか未来の世界へ。東京タワーがスカイツリーに時代は変わっても終わりに見た街の恐怖は同じということがメッセージだったように思った。
どんな時代どんな世代も思考停止視野狭窄は本質を見失いますね。最近のクドカンのメッセージ性にはプラナイ様々感じますがこの世界観は時折投げかける意味があると思いました。
山田太一の最後の方のドラマだったと思う。実はこの時もう山田太一は作家としてはダメかなと思ってたので当時も見てない。今更感があってみる気に成らなかったけど最初の方だけ見た。
セリフは確かによく出来ていて変なとこは無いのだけどやはり、当時ならともかく今更タイムスリップは面白く無い。大泉洋が主役という時点で山田太一感がないし、クドカン感も無い。はっきりいうと戦争中のカルチャーショックを描くのはすごく簡単だろうなと思う。やはり今では古臭い感じがするし、やはりリメイクするなら全盛期の山田太一だろう。男たちの旅路とかリメイクしてほしい。
「それぞれの捉え方で消化してくれ」系の終わり。
私はそういうの好きじゃない。なにこれ?的な感想。
どう終わるのか期待していたのに残念だった。
序盤の現代の件、要るかね?初めだけ豪華出演陣でパロディっぽさもあるしクドカン感満載で期待したのになぁー。
謎だった勝地涼。おんなじ人が演じているって、どの時代にもある戦争の顔、S19年には軍人として現れ、2024には現代人が見ぬふりをして無関係をよそおっている戦争かつ戦争を招き入れている戦争の象徴化もしれない。といろんな解説見て思いました。主人公を見逃したのは戦争を運命として逃れることはできないことを示唆したのか。
それを否定するべくスマホを踏みつけたのは時空を超えた清子と
進也。終わりの町の絶望の中にドラマは終わる。
が、未来への希望は視聴者への警告として託されたのか。
よそのレビューなどもみながら自分なりに考えました。
2回ほど見ました。
そして細川俊之版がYouTubeで見られると言う情報があり、ラストを見てみました。今は何年だと尋ねると、198…と言う答え。
こんな戦争と今の大人は言うけれど
国のために戦って勝つんだと思い込む若者
今度戦争が始まったら、もしそんな事が起きたら
その時の若者は我が子たちは迷いなく戦おうとするのかもしれない。そんな悲しく怖しいことを考えてしまうドラマでした。
このドラマ放送の前に山田太一さん脚本のほうの「終わりに見た街」を再放送してくれるのかと思ったら違った。
太一さんのは「時は立ち止まらない」だった。
山田さんは戦時中の教育勅語教育を受けた犠牲者として子供世代の私たちにいくつものメッセージを残している。
そのメッセージに再び触れるきっかけになるドラマであればいいと思った。
期待してましたが正直つまらなかった。
寝落ち寸前でよく理解してなかっただけなのか。
怖かったです、とても。
最後、腕が飛んでたもんね。現代を生きる私には、もうそれだけだって生々しく恐ろしかった。
戦時中は、これがデフォルトだったのかと改めて。今息をしてた話をしていた人の肉体が一瞬で形を変える。
しみじみ、当たり前に過ごす現代の有り難さと呑気さを思いました。安穏な日々に育つ戦史に無知な子らは、入ってしまえば疑いもなく軍国主義思想に陥って行く。
こうやって当時、竹槍持って空を突いていたんでしょうかね。恐ろしいことだよね。仕方ないっちゃ仕方ないけど。
こんな戦争、こんな戦争、って言えるのは、過去を悼む余裕のある平和な未来からやってきた者だからなのか。
いやー生々しさをより感じる作品でした。
怖かったなー。
どの作品も今まで一度も見たことがなくて、誠に恥ずかしい限りですが、どのバージョンもその時代に合った価値観と解釈で戦争というものの残酷さを腑に落とすんでしょう。
そういう意味ではクドカンverはスマホが効いてましたかね。
自分の大切なものを詰めろと言われて、「無いや」と言い切った息子。家族だった大切な犬も味方に払われ、捨て行くような惨状。
ある意味、敵がどんどん増えていく。
全てがまさに気狂いの沙汰でした。
怖かった〜。
他の作品も見てみようと思います。
恐ろしくはなかった。
戦争はアレ以上の惨たらしさだから。腕とわかればまだいいよ。遺体は一体、二体の区別がわからなくなるんだよ。影や石になって死んでいった人も我が国には多数いる。
怖いだけで終わっていいのだろうか。
また、現在行われている戦争は紀元前から行われているものもある、宗教も絡んでいる。簡単には語れない。わからないら、何が事実で、何が悪なのかが。わからない事は安易には語らない。
怖いよね、腕吹っ飛んでんのも怖いけど、最後に田宮太一の瞳に映る少女の母清子さんが、初恋の人なのか小島さんの息子の新也さんなのかに負ぶさって行く後ろ姿も怖くて。しかし、ここはちょっと令和版デフォルメ強くてメッセージぼやけた気がしたかな、私はですが思いました。
主人公が「今、何年ですか?」が山田太一のメッセージなのではないかなと実はこのドラマを初めて観た1982年から思っているからでした。以下ネタバレ
気がついた主人公は、瓦礫の彼方に東京タワーを見ます(今回はスカイツリーだった)錯乱した主人公は、そこが何処で何年なのか分からなくなって、尋ねるんです「今、何年ですか?」って、それがとても怖くて山田太一のメッセージだったのではないかなと思っています。変わって今回の宮藤官九郎のメッセージは、ド頭にあって田宮太一が、最初に言う台詞「戦争の実体験などない戦争から遠く離れた世代の自分に反戦ドラマなんて書けるだろうか、、」云々の台詞ではないかなと思っています。実に率直で謙虚な受け止め方だと思いました。それが戦争を知らない子供世代と親世代の相違に正直に表現されていて、宮藤官九郎版はそこにとても感銘を受けました。どんなかたちでも、もう全く戦争を知らない子供たちばかりになってしまう現代に残して行くべき名作であると思います。原作者山田太一氏も戦争を知らない子供たちが創った戦争を考えるドラマに満足なされているのではないかと思いました。
主人公と家族や知人が昭和の終戦前にタイムスリップして戦争の混乱を生き抜く物語だが、特に怖かったのは現代の大人たちより現代の子供たちの方が洗脳されて軍国主義に染まってしまう場面が怖かった。今世界中の何処かで戦争があり核攻撃を仄めかす某国家があり、銃口を向けられたように隣国からミサイルを日本に向けられています。いつ何処かの国が暴発して核戦争が起こり我が国も破壊される危機が現実も起こりいる状況になって来ました。ドラマの主人公と同じく終わりに見た街を未来で遭遇するかもしれないと思うと身の毛がよだちました。このドラマを見て核兵器廃絶と世界平和や人間の尊厳を守りたいと思いました。
個人的に反戦ドラマって、終戦記念日辺りに放送する事で
メッセージが伝わりやすくなる気がする
日本では8/15だよね
原作も過去のドラマも知らなかったので、本作を観ただけの感想。
冒頭に出てくる「戦争を知らない自分に反戦ドラマなんて書けるのか?」というようなセリフがあったが、クドカン自身の正直な思いと同作を作る上での覚悟が伝わってきたように思えた。
ラストシーンは、最初に観た時には「謎」の一言に尽きる。なぜ現代に戻ってきたのか、なぜ東京都心が破壊されているのか、瀕死の状態の男性が原爆の被害者のように描かれているのはなぜなのか、なぜ子供時代の母親がそこにいるのか、その子供をおぶっているのは誰なのか。それから、ラストシーンではないが、何度も登場する同じ顔の男の意味は何だったのか。
あまりに謎すぎて、ふと思い出して反芻しながら考えている。そこでふと、観る側に強烈な印象を残し、考えさせるためにこんな意味不明なシーンを用意したのかと思った。
もっとも怖かったのは、子供達が軍国主義に染まっていくという描写。若くてみずみずしい感性を持ち高い順応性に富む子供達のほうが、社会的な影響を素直に抵抗なく受け取って価値観を歪められていくということが、寒気がするほど恐ろしかった。
クドカン、緻密に逆算して伏線張って回収するのが嫌になったのかなぁという印象。
子供たちが時代に洗脳される描写は、首都が爆撃されてたらもう無理だろと普通は思うけど、空腹・疲労・睡眠不足の中で同じこと言われ続けたらこうなるんだろうなとは思った。
もう一度見直さないと理解出来ないが、見直そうと思わない。
クドカンは、何でこのドラマのリメイクをしたんだろう。
この間もリメイクをやってた。季節のない街。
映画でもリメイク。一秒先の彼。
季節のない街は、長年やりたかったものらしいけど、これは?映画は?
リメイクづいてるのは、何で?
オリジナルが書けない人じゃないでしょ。それとも書けなくなったの?
それか、リメイク企画をクドカンに持ち込む人がいるの?
何の為に?クドカンのネームバリューが欲しいの?
そんなことを思うのは、山田太一とクドカンは描きたいものがある時に、全然違うアプローチをする人だと思うから。
大泉洋がやった主人公の太一は、山田太一自身だと思う。
だから、山田太一がこの話を書いた理由は何となく想像がつく。
本の出版は1981年。今から43年前。戦争の記憶が無くなり始めた頃。
山田太一は、危機感を持ったんだろう。
だから、自分を作品に登場させて、この話を通じて自分の伝えたいことを世の中に伝えたのだと思う。
作者が自分を話の主人公に据えるなんて、山田太一の本気度が窺える。
でも、主人公の太一はクドカンじゃない。
だから、クドカンぽくない台詞が太一には沢山ある。
もしかして、それを相殺する為にクドカンは勝地涼を登場させた?
いつも第3者的な立場でその場にいる勝地涼。
クドカンは、割といつも第3者的な立場で人を眺める。
色んな人を観察して色んな人がいることを面白がり、どんな人でも興味深い人として愛を持って人を描く。
クドカンは誰かや何かを糾弾することはなくて、登場人物が誰かや何かを糾弾していても、糾弾する側される側、どちらにも相応の気持ちがあることを俯瞰して描く。どちらか一方だけの見方や描き方はしない。
それが、クドカンの作品の良さであり面白さ。
山田太一の作品とは明らかに違う部分。
勝地涼がこのドラマで演じてる役柄は、太一を混乱させたり混ぜっ返しをしたりして、太一とは違う視点や感覚で生きてる人がいつもいることを暗に示している。
太一は主人公だけど、太一の視点や気持ちが全てじゃないよ、みたいな役割を担っているのが、勝地涼。
お気楽だったり、適当だったり、一歩引いていたり、その場に合わせての臨機応変な行動だったり。
このドラマは、山田太一自身である主人公太一と、太一とは違う感覚で生きている人間(勝地涼)が、どの時代でもいつも世の中にはいる、ということを表した作品なのかもしれない。
物事への処し方は1つではないよ。世の中にはいつも色んな人間がいるんだよ。とでもいうような。
なるほど、山田太一とクドカンのコラボ作品だなぁとは確かに感じる。
でも、わざわざそうまでして、山田太一が描いたものをリメイクする必要があるのかな、クドカンはクドカンなりの戦争観や戦時中に対する時代観でクドカン自身の作品を書いても良かったんじゃ?
と、私は思うけれど。
これってリメイクだったのか。
元ネタを知らないせいか全く意味が分からず、折角の戦争をテーマにした物語なのにラストが分かり辛く残念でした。
現代にも突然、起こり得るかもしれないとは災害と同じく対岸の火事とまで余所事ではなく感じているので、逆にもっとメッセージ性が有れば良かったのにと思いました。
子供の方が洗脳され易いだろう事は解るし、大人は間違いを声高に言える人も少ない。
「生」をもっと大事に思える環境で有ったなら違う感想が生まれたのかもしれないと、他の方のレビューを読んで思った。
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